僕が僕のすべて 264J | 櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

【可塑的かそ・てき】思うように物の形をつくれること。 塑造できること。
主にラブイチャ系よりは切ないネガ多めです。
※このブログにある物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

パタパタとバスルームに向かう翔の後姿を横目に、淹れたての珈琲をカップへと注いだ。

 

 

それからそれをそっと口へと運ぶと、自分の淹れた珈琲があまりにも美味くて思わず笑みが零れる。

 

『潤さんさえそばにいてくれれば、俺は無敵だ』

 

なんだかんだで俺はこの台詞にいつだって救われてきた。

翔はまだ若い。

マジでコイツの人生、まだまだこれからってところで。

っていうかまだ始まったばっかじゃん。

考え方だって年をとるにつれて変わっていくことも身をもって知っている。

今はそれが正しいと信じていても、いつかはきっと間違いだったと気付く日がくる。

 

俺はそれが怖かった。

ずっとずっと。

正直言うと今でも怖い。

 

だけど、いつ来るかも分からない未来のことを悲観するよりも、俺のことを好きだと躊躇うこともなく言い切るあいつと、同じ方角を向いて寄り添うことの方が、何倍も大切だと思えた。

 

こんな年にもなって、マジな恋をしているなんて相当滑稽なんだろうけど。

どうしても、どうやったって俺は、この恋を守りたいと思ってしまうんだ。

 

何でそんなに必死になってんだって?

そんなの、理由なんて簡単なことだ。

 

ーーーそれは、翔がこの恋を必死に守っているからーーー

 

翔にとって大切なこの恋を、俺も守りたいと思う気持ちに矛盾なんて一つもない。

 

「てか…、」

 

俺ってば、なんでこんなに心臓がバクバクしてんだ。

こんな年にもなって。

まさか、これって緊張なのか?

 

「いや、……そのまさかだわ、」

 

この後のことを想像していない訳じゃない。

だけど想像しようとすればするほど、なんでかやけに胸が苦しくなる。

まるで吸い方を忘れてしまったように、息をするのが難しい。

 

どうして。

翔とはこれまでに何度も身体を重ねてきたじゃないか。

それなのにまるで初めてみたいなこの感覚は一体何なんだ。

 

「……吐きそう、」

 

せっかく美味い珈琲を淹れることができたのに。

今更、どうしてしまったというんだ俺は。

 

浮足立つ自分を落ち着かせるように、珈琲のカップを握ったままテレビの電源をスイッチをいれる。

真っ暗な画面に、ポンっと浮かび上がってくるSVODの文字。

リストの中から気になっていた映画のタイトルを選択して、ソファへと腰を下ろした。

 

あぁどうして。

こんなにも内容が頭に入ってこない。

確かに画面上では音楽が流れ、人物が喋っているのに。

それはなんの意味もなさないBGMのよう。

 

それにドキドキと高鳴る心臓は、いつまでたっても落ち着く気配がない。

 

「潤さん」

「わっ、」

 

そんな時、不意に背後に覆いかぶさる翔の、やけにねっとりとした低い声に背中が粟立った。

つかいつの間に?

足音もなにも聞こえなかったんだけど。

それほど俺は、脳裏に渦巻く空想に集中していたのだろうか。

 

「潤さん」

 

もう一度そう名前を呼ばれて、俺は慌ててソファから立ち上がった。

 

「珈琲っ、飲むだろ?今入れるから」

「あぁ、うん」

 

キッチンへと移動し、サーバーからカップへと珈琲を注ぐと香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

やっぱりこの香りには気持ちを落ち着かせる効果がある。

段々と、ゆっくりと、心が安定していくのが手に取るように分かる。

ある意味、珈琲を淹れておいて良かったとさえ思える。

 

「ほら」

「サンキュ」

 

それから、少しだけミルクで割った珈琲を翔に手渡した。