僕が僕のすべて250S | 櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

【可塑的かそ・てき】思うように物の形をつくれること。 塑造できること。
主にラブイチャ系よりは切ないネガ多めです。
※このブログにある物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

普通に「ただいま」と声をかけてリビングへと入っていく潤さんの背中を追う。

すると中から「おかえり」と言う華絵さんの声がして、潤さんの後ろから顔を覗かせた俺にも、一瞬吃驚したものの、

 

「佐倉井くん、いらっしゃいっ」

 

そう朗らかに微笑んでくれた。

 

「潤、お部屋どうだった?」

「うん、気に入ったところがあったからそこに決めてきた」

「あら、それは良かったわね」

「いくつか候補を絞って行ったからね、母さんコーヒー飲む?」

「いただこうかしら」

「翔はラテだよな?」

「あ、うん」

 

シャツのボタンを器用に外し、その袖をくるくると巻き上げながらキッチンへ入っていく潤さんの脇で、華絵さんはソファに座るようにと俺を誘う。

そしてその横に、とてつもなく控えめにチョコンと座る華絵さんは、

 

「潤の淹れてくれるコーヒーを飲めるのも残り僅かね」

 

表情は朗らかなのに少し寂しそうに呟く声に、やけに胸が苦しくなって。

これまで仕事で忙しくしていた潤さんは、おそらくずっと実家には帰っていなかっただろう。

それは恋人だった、しかも同棲までしていた俺でさえ全く逢えない日々が続いていたからこそ分かることで。

華絵さん、潤さんが家に戻ってきてくれて嬉しかっただろうな。

そんな家族を俺なんかの我儘で引き裂いてしまっていいのだろうか。

だって松元家の絆は、傍から見た俺でさえ分かるぐらい太くて強くて。

だからこそ、思わず「すみません」なんて言葉が口をついて出てしまいそうで、奥歯をぐっと噛みしめた。

もしも俺がそんなことを言ったら、この人たちはどう思うか。

もしも俺と潤さんがそういう関係だと知ったら、この人たちはどんなに失望するか。

想像しただけでも……怖い。

 

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

「はい、翔はこっち」

「ありがと」

 

コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

口に含むとミルクの甘さが一気に広がって、飲み干すとじわりと胃の中が温まった。

 

「美味しい」

 

そう、幸せそうに微笑む華絵さんを、潤さんも嬉しそうに眺めている。

 

「そうだわ、潤」

「ん?」

「引越しはいつ頃になりそうかしら」

「今月末に鍵を貰えるって話だったから、そのぐらいを目途に考えてる」

 

まぁ実家からの引越しだからそんなに慌ててはいないけど、と話す潤さんの華絵さんに対する優しさに内心ホッとして。

そんな俺と同じぐらい華絵さんも、潤さんとの別れがそんなに急じゃないということを知ってホッとしているように見えた。

そして潤さんは、

 

「ん、」

 

俺があっという間に飲み干してしまった空のコーヒーカップを手に取ると、左手で俺の頭をぽんぽんと触って、それはコーヒーで温まった胃の中よりも、もっと暖かくて。

俺はそんな潤さんの想いに触れるのが堪らなく好きで。

きっと俺が涙もろくなってしまったのは、九割この人の優しさのせいだと思う。

 

それから暫く華絵さんとは他愛ない話をして、ふと時計に目を移した潤さんは俺を家まで送るとテーブルの上に置いていた車の鍵を手に取った。

 

「お邪魔しました」

「なんのお構いもできなくてごめんなさいね」

「いえ、なんかいつも突然ですみません」

「佐倉井くんならいつでも大歓迎よ。潤がいなくても佐倉井くん一人でもふらっと寄ってくれていいのよ」

「えっ、本当ですか!?」

「翔がよければ俺も全然構わないよ」

「潤さん、」

 

そして玄関の外まで出てきてくれた華絵さんは、さっさと車庫に歩いて行く潤さんを他所にこっそりと俺のことを呼び止め、

 

「今度、潤と佐倉井くんの出会いからこれまでのこと、インタビューさせてね」

「えっ、」

 

まるで内緒話をするようにこそこそと耳元でそう囁き、薄いピンク色の唇で弧を描くと、ふふふと柔らかく微笑んだ。