ただピアノが弾きたくて。
やめたのは自分なのに。
続けてるのが辛かったからやめたのに。
なのに弾けないことが辛いのが何故なのか俺にも分かってない。
生まれた時からピアノとはずっと一緒だった。
空気みたいに当たり前にそれはあって、失うことだって当たり前になかった。
だけどピアノという世界で俺は、いつの間にか陸から深い海の中へと潜りこみ、まるで空気が毒になる瞬間を感じていた。
そう…ピアノが俺の中を蝕んでいくみたいに。
指が鍵盤を叩いても、濁音しか返ってこない。
濁った水たまりの中から青い空を見ているような空虚。
いつしか夢でもうなされるようになり、酒の量も増えていった。
雅紀はそんな俺に何も言わなかったけれど、心配しているのが手に取るように分かっていた。
だから俺は暗闇の底から手を伸ばした。
そう。
俺に笑いかける松元の笑顔に向かって。
やめればやめるほど、禁断症状というのだろうか。
ただただしんどくなっていく。
頭も身体も。
いつからか雅紀の笑顔も歪んで見えていた。
『翔様からピアノをとったら何も残らない』
まるでそう言われているようで。
つか、まじでそうなんだ。
図星。
いっそのこと、家からピアノを無くしてしまおうか。
なんて、思ったところまでで結局行動には移せなかった情けない自分に嫌気がさす。
未練タラタラなんだよ。
未だに執念深く思ってんだ。
松元が俺のピアノを調律さえしてくれれば、と。
自分から遠ざけたのに。
俺があいつを傷つけたのに。
分かってんのに!!
飲みたくなるんだよ。
あいつの煎れた緑茶が。
俺が美味いって言った後に、綻ぶ花のように笑う顔。
もう一度その笑顔が見たい。
…なんて、今になって気づいても遅い。
寂しくて。
本音を言えば寂しくて。
松元を失って、ただ寂しくて。
寂しいなんて気持ちを抱くのはどのぐらいぶりだろう。
ポッカリと空いた胸の中。
まるでその穴を埋めるために松元の調律したピアノが弾きたくなった。
だけどあいつが調律したピアノなんてどこにあるというのか。
大海の家…どの面下げて行くというんだ。
コンクールで使ったピアノなんて、どこにあるのか見当もつかない。
そうだ、雅紀に聞けば分かるかな。
だけどもうこんな時間だし無理か。
「あ…」
知ってる。
あいつが調律したピアノ。
思い立ったらもう足が勝手に教会に向かっていた。
さっきまでロックでガブ飲みしていたブランデーが完全に回っている。
そんなフラフラな状態で、普通に歩くのだけでも困難な状況で。
だけど、必死に屋敷から公道に出て、途中つっかかったり転んだりであちこちぶつけて。
やっとも思いで辿り着いた時には、膝やら腕は痣だらけ。
だけど胸の痛みに比べれば、そんなのちっとも痛くなんてなかった。
そして遅い時間にもかかわらず、無理を言って教会の人にピアノを弾かしてもらえるよう頼み込んだ。
普通に考えれば酔っ払いの戯言だと、突き放されるのが当然だと思うのに。
神父は嫌な顔1つせず聖堂へと通してくれた。
足を踏み入れたそこには黒光りするグランドピアノが堂々と佇んでいた。
松元の調律したピアノを、心の底から欲している。
早く弾かせてくれと、やかましく催促する。
俺は不必要にベタベタとピアノのボディに触れ、頬擦りをし、久しぶりにピアノの温もりを身体中で感じていた。
それからゆっくりと椅子に腰掛け上蓋を開けた。
整然と並んだ鍵盤の上に全ての指を乗せると背中がゾワゾワと粟だった。
そして、ぐっぐっと数回右足でペダルを踏んでその感覚を呼び覚まし、俺は大きく息を吸った。
一斉に鍵盤を弾く。
鳴り響く綺麗な和音。
松元が調律してからだいぶ経っているせいか、完全に澄み切っているわけではないが、自分のピアノとは比にもならない。
赴くままに一気に指を滑らせる。
気持ちがいい。
つっかえていた棒みたいなものが次々と外されていく。
そして指が喜ぶ。
いや、きっと指だけじゃない。
自分を形成している細胞全てが歓喜しているのが分かる。
我を忘れるように弾いた。
何にも邪魔されず、本能の赴くままに。
ただただ無心に。
そんな時、ふっと涼しい風を感じた。
少しして自分の手元に影が降ってきたのに気がついた俺は、ようやく顔を上げた。
神父か、それとも雅紀が迎えに来たのか。
あまり深くも考えずに見上げた先にあったのは、
「松元」
ここに居るはずもないあいつの姿だった。