affection26 | 櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

【可塑的かそ・てき】思うように物の形をつくれること。 塑造できること。
主にラブイチャ系よりは切ないネガ多めです。
※このブログにある物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

僕は佐倉井さんの姿に見入っていた。

だけどしばらくすると背後に気配を感じて、

 
「どうかされましたか?」
 
振り返ると大きなトレイにお茶の道具を乗せた相澤さんが僕に向かってにっこりと微笑んだ。
 
「くふふ、松元様、まるで恋をしているようなお顔ですね」
「えっ、そんなことっ…」
 
突然変なことを言われて声を荒らげると、ピアノの音がピタリと止まった。
 
「松元、来ているのか?」
 
いすに座ったまま部屋の入口へと身を乗り出す佐倉井さんに、どうもと頭を下げる。
 
「本当に来てくれたんだな」
 
そう、嬉しそうに口角を上げる佐倉井さん。
ピアノの音色は淋し気なくせに、他人に対する態度はいつも上からで。
だけどそれにいちいち腹を立てたって埒が明かないんだろうとも思う。
 
「なぁ松元、ちょっとこっちに来てくれ」
 
それに本人は、あまりそれを自覚してはいなさそうだ。
僕は言われるがままに佐倉井さんのそばへ寄ると、彼はピアノの蓋を開けて僕に見せた。
 
「どう?」
「とても綺麗に整えられています」
 
僕は、見たままを率直に述べた。
ほら、やっぱり。
僕なんかが手を入れなくても、このピアノは他の誰かがきちんと手入れをしている。
 
この人は本当に。
一体僕に何をさせたいのか。
 
「じゃあ…、音を聞いてほしい」
 
佐倉井さんは窓際に置かれたイスに僕を座らせると、全ての指を鍵盤の上へ添え、すぅーーーっと大きく息を吸った。
弾き始めた曲は、ショパンのワルツ第14。
 

 

明るく華やかなその曲は、ショパンのワルツの中でも技巧的な曲だと言われている。

ロ音の連打が主題だけれど、右手のオクターヴにわたるポジションチェンジはピアニスティックな技巧を有する。

その指遣いに一瞬にして目を惹きつけられるも、すぐに迫りくるアプローチにドキドキしたりギュッとなったりで頭も感情も忙しい。

 
普通に聴いていればとても素晴らしい演奏。
 
だけど僕には、ただそれだけには聴こえない。
 
何をそんなに悩んでいるんですか。
思わずそう尋ねてしまいたくなる。
 
曲を弾き終えた佐倉井さんは息を整えると、再び僕に向かってまっすぐに、
 
「どう?」
 
そう問いかけてきた。
 
「素晴らしい演奏でした」
「違う、そうじゃない」
「?」
「そうだな…、旋律っていうのかな、きみにはどう聴こえた?」
「旋律」
 
この人は僕に、何を言わせたいのだろう。
僕はここで、何と言えば正解なのだろう。
 
なにが正解なのか分からないまま黙り込んでしまった僕に、相澤さんが金彩の鮮やかなティーカップを運んでくれた。
手に取ると柑橘特有の爽やかな香りがふわりと鼻をくすぐった。
 
「ありがとうございます」
 
その紅茶を口に含む。
うん、すごく美味しい。
落ち着く。
 
だけどやっぱり僕は、さっきからずっと同じことを考えてる。
佐倉井さんの弾くピアノは、なぜこんなにも哀しみだけが全面に出てくるのか。
 
もしも哀しい曲を弾いたならば、音と感情がピッタリと重なって、聴く人の心を揺さぶることができるだろうけど…もしそうじゃなく、楽しいはずの曲だったら。
今のワルツを聴いた僕のように、あっという間に感情がバラバラにされて不安な気持ちになってしまう。
 
「佐倉井さんはどんな気持ちでピアノを弾いてるんですか?」
「どんな気持ち?」
「僕はピアノは弾けないからよく分からないですが…、楽しい曲は楽しく、哀しい曲はその気持ちに寄り添って…、ピアノはそんな風に弾くものだと思ってました。でもあなたは違うから」
 
僕がそう言うと、彼はくはっと声を上げて笑った。
だけどそれは、笑ってるのに、笑ってない。
佐倉井さんの弾くピアノのアンバランスさによく似ている。
 
「きみは正直な人だな」
 
佐倉井さんはそう言ってから再びピアノを弾き始めた。
結局どんな気持ちでピアノを弾いているのかという回答は得られないままで、僕はずっと佐倉井さんのそばで彼の弾くピアノを聴いていた。
 
智さんの演奏とはまるで違う。
聴いているだけなのに、心が締め付けられ、見ているのも辛くなる時間もあった。
 
けれど繰り返し佐倉井さんのピアノを聴いていると、やっぱりこの苦しさは佐倉井さんの心の悲鳴なんじゃないかと思えてならなかった。
 
言葉にできない怒りや苦しみやどうしようもない想いを、指をそして体を使って全てを吐き出すようにして表現している。
誰でもいいから、自分のことを理解して欲しいと叫んでいる。
 
佐倉井さんは今までずっとそうして生きてきたんだと思った。