何故だ。
何故このピアノを調律できない。
どこをどうしたって見つけられなかった松元。
そんなきみのことを、コンクールのあの日、俺は見つけることができた。
手に手を取りそれは天にも登るような気持ちで、それに輪をかけるかのように優秀賞にまで選ばれ、浮かれる俺を嘲笑うかのようにきみは。
大海と共にホールから消え去った。
諦めと失意。
次にいつ逢えるかも分からなければ、逢えたところで何の解決になる。
相変わらず我が家では、どの調律師を呼んだってピアノの音は一向に変わらない。
俺は。
一体何のためにピアノを弾いているのだろう。
こんなに辛いなら、もういっそのこと辞めてしまえばいい。
そっとピアノに手を置く。
今しがた松元をここに押し付け、その細い首元を締め上げ罵声を浴びせた。
その時の恐怖に慄いた瞳がチカチカとフラッシュバックする。
違う。
俺はきみにそんな顔をさせたかったんじゃない。
俺は悪くない。
悪いのは、俺を拒否するきみのほうだ。
だって…、調律できないってなんで。
教会のピアノも、コンクール会場のピアノも…そして大海智のピアノだって調律してたじゃねぇかよ。
だったらこのピアノもできんだろ!
そう思うのに。
『僕にあなたのピアノを調律することは出来ません』
ハッキリとした口調で拒絶された。
その言葉を聞いた途端、世界にヒビが入ってグレーアウトする。
世界が終わるってこういうことを言うんだと思った。
おまえが俺のピアノを見捨ててしまったら、俺はどうなるんだよ。
助けてくれ。
もう…これ以上は無理なんだ。
大好きだったはずのピアノが、いつしか重荷となり俺の肩にのしかかる。
松元を知らないままなら、こんな思いをしなくて済んだのだろうか。
片っ端から調律師を呼び続けていればいつかは邪魔をする調和の乱れも解消されて、また心弾むような気持ちでピアノが弾けたのだろうか。
だけど。
もう遅い。
だって俺は松元の存在を知ってしまった。
もう俺の中じゃ、きみが最後の砦になってしまっている。
松元に調律してもらえれば、俺はまた心から楽しんでピアノが弾けるって…、まるでもうそれしか残された道が無いみたいに俺は情けなくしがみつくことしかできない。
それなのに。
調律できないと告げられて、なんでって、どうしてって、最終的にはただそれだけの感情しか残っていなくて。
だからこそ、どんな形でもいい。
失いたくないと思った。
「雅紀、こいつにカード渡して」
「承知致しました」
雅紀がポケットからカードを取り出し、
「松元様、どうぞ」
カードを手渡すと、松元はそれを不思議そうに眺めていた。
「入口の門にカードをかざす場所がございます。読み取りが完了しましたら鍵が開きますので今後はこのカードで出入りしてください」
「はぁ…」
松元はそのカードを大事そうに鞄の中へしまい、
「あの…、」
困ったような顔で俺の顔を見る。
「なに?」
「僕はここへどんなタイミングで来ればいいんでしょう」
「いつでもいい、おまえに任せる」
「……でも、」
「でも?」
「佐倉井さんにも不都合な時間帯があるのでは…」
「確かにそうだな…、でもまぁきみだけは特別だ」
「……分かりました」
ぺこりと頭を下げると、雅紀が表まで送ると言って松元を部屋の外へと促した。
2人が屋敷の外へ出てくるのを、俺は窓から眺めていた。
今できなくてもいつかは。
そんな僅かな望みにかけて。
松元、覚悟しおいてくれ。
俺はきみを簡単に手放したりしない。
いつかその手で、俺のピアノを。
調律させてみせる。