優しい雨59 | 櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

【可塑的かそ・てき】思うように物の形をつくれること。 塑造できること。
主にラブイチャ系よりは切ないネガ多めです。
※このブログにある物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

おうみさとし。
 
だめだ。

やっぱり多分俺この人のこと知らない。
今まで色んなオーディション受けてきて、小さい役だけど場数だけは踏んでる。
共演した人たちの名前は大概覚えてるつもり。
そういうの意外と得意だったりするし。

だけどやっぱりその顔にも見覚えないし、名前を聞いてもピンとこない。
俺は知らないのに相手は知ってるってなんか相当怖い気がしてきた。
  
「俺のこと知らねぇって顔だな」
 
さっき控室にいた時とはまったく別人の顔で、すごく面白そうにケラケラと笑ってる。
 
「俺はずっと京都でやってたからな」
「京都?」
「うん」
 
そしてまたニヘラっと笑った。
その笑みにとりあえず笑い返して。

別に面白くもなんともないんだけど。
あ、でも…話は全然面白くないけど…この人事態はなんだか面白い。

それにしても京都を拠点にしてたのか。

どうりで知らないわけだ。
この人こんなにふにゃふにゃで俺に負けず劣らずな背格好なのに、その身体で一体どんな演技をするんだろう。
だってその瞳に野心なんてちっとも見えないし、それどころか常に眠そうにしてるし。
一緒にいたらなんか引っ張られそうだなぁなんて。
ほら、学校とかによくいるじゃない?

授業中屋上とかでサボってる奴。

そんな感じの雰囲気だからさぁ。


俺だってそっちの方が性に合うけど、今はここで足の引っ張り合いしてる場合じゃない。

俺はこの舞台を勝負の場にしたいの。

これからこれでやっていけるのかどうか試したいの。

そして、キラキラした俺を相澤さんに見せたいんだよ。
  
「そろそろ時間だから、戻ろっか」

腕時計を見ながらそう言えば、
 
「お、ああ。もうそんな時間か。んじゃそろそろ戻るか」
 
そう言って、ほいっなんて俺に手を差し出してきた。
え、なにこれ。どういうこと?
呆然としている俺の手を一方的にぎゅっと握ると、この近江智という男は控室から連れ出した時と同じようにまたステージの袖口からぐいぐいと控室へと引っ張っていく。
なにこの人。
ちょっと、いや、かなり面白い。
ふふっ、んふふふっ。
俺はその手に引っ張られながら笑いが止まらなかった。
そんな俺と近江さんの姿を見た団長が、
 
「おまえいつの間に近江と仲良くなったんだ」
 
なんて目をまん丸くしてて。
そりゃそうだよね。

だって俺だってビックリしてんだもん。
だけどなんか妙に波長が合うというかなんというか一緒にいて楽というか。
居心地よけりゃ別にいっかなと思って。
 
そんな俺に団長はすこぶる真面目な顔で、
 
「あいつは凄え奴だぞ。主役のおまえなんかよりずっとずっと実力は上だ。いい機会だから色んなことを教えてもらえよ」
 
そう言ったのだ。
え!このふにゃふにゃしたいかにもヤル気なさそうなコイツが?
うっそだあ!なんてその時は全然その言葉を信じちゃいなかったけど。

ステージに立ったこの人を見てぞわぞわと全身に鳥肌が立った。
 
ライトが当たった途端に変わる眼差し。
丸まっていたはずの背中はスッと伸び一回りその姿を大きく見せている。
身体の軸はぶれることなく常に安定していて、その小さな口からは想像もできないほど発せられる言葉が綺麗な音域にのってる。
この人がステージに立つだけで、声を発するだけで、場の空気が変わって。

「あいつ、すげぇ」

隣で見ていた冬真までそう呟いた。
 
それなのにライトが当たってないとすぐ俺のそばに寄ってきて、俺の尻をわしずかみにしてニヘラッとニヤけるんだ。
そして、いつしか俺らの挨拶は尻の掴み合いになっていた。