★外務大臣を務めたドイツ翁の夏の那須別邸 外観編★
場所・ 栃木県那須塩原市青木27 道の駅「明治の森・黒磯」
電話・ 0287-63-0339
竣工・ 昭和8年(1933)
設計・ 松が崎萬長(1858~1922)男爵
構造・ 木造2階建て スレート貼り
開館・ 9~17時 200円 *当時の情報
最終訪問・ 2009.07
*国・重要文化財
栃木県北部、別荘地と温泉で有名な那須塩原市にある別荘建築です
青木周蔵(1844~1914)は、ドイツ行使や外務大臣・駐米全権大使などを歴任した外交官で、特にドイツ翁と称されるほど長くドイツに滞在しました
周蔵は、ドイツの貴族地主に憧れ、明治14(1881)年ここに青木農場を開放しました
この建物は、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)に本邸を持っていた周蔵の那須別邸として、明治21年(1888)に建築されました
当時は中央の2階建ての部分だけでしたが、その後増築を重ね、明治42(1909)年に現在の姿となり、地域の人々から青木邸と呼ばれ、親しまれてきました
設計者は松が崎萬長(1858~1922)男爵で、岩倉使節団とともに留学生としてドイツに渡り、12年間滞在して建築を学んだ建築家です
帰国後、ドイツとの建築技術交流に尽力し、ドイツ風建築を設計しました
この青木邸は、我が国に遺る萬長の唯一の作品で、軸組や小屋組に様式の構法を採用し、外壁にうろこ形のスレートを用いるなどの特徴を持つ貴重な近代建築です
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★青木周蔵(1844~1914)
幕末の長州(山口県)に生まれた明治時代の外交官です
幼名を三浦団七を言いましたが、蘭学と医学の修行を通じて長州藩の藩医である青木家の知遇を得、その養子となりました
明治の初め、最初のプロシャ(ドイツ)留学生として医学を学び、後、志を外交に向けました
明治6年、折から岩倉使節団の副使として欧州に滞在した木戸孝允に認められてプロシァ憲法を翻案した憲法案を作成することで官途が開け、やがて最初の駐独全権公使となりました
明治18年には井上馨外相のもとで次官、明治22年からは山縣有朋内閣の外相、24年には松方正義内閣の外相として条約改正を手掛けましたが、
来日中のロシア皇太子が護衛警官に襲われて負傷した「大津事件」の責任を取って辞職、成功に至りませんでした
なかなかエリート街道も険しいですね
しかし、明治27年には伊藤博文内閣の陸奥宗光外相と協力、駐英全権公使として条約改正の端緒を開きました(不屈の精神か)
明治31年、第2次山縣内閣の外相となり、北清事変の解決などに努力を傾けましたが、対ロシア強硬策で閣内不一致のもととなり、山縣内閣総辞職の原因となりました(やはり政治家は難しいなあ)
青木は有能な外交官ではありましたが、「ドイツ癖」とあだなされるほどドイツ一辺倒だったためもあって、三国干渉の予測誤るなど、失敗も多かったそうです
一方、伊藤博文のベルリン、ウィーンにおける憲法調査への協力を果たし、また、ベルツやケーベル、モッセ、エンデ、ベックマンなど有能な学者・技術者たちの招待に力を致すなど、
ドイツ系人文科学・自然科学・技術そのほか、豊かなドイツ文化を日本に移し植えた功績は大きいです(とりあえず、ドイツのことなら任せてOKか)
那須において造林などに重点を置いた独特の農場経営を行ったことも記憶されるべきです
明治20年には子爵の爵位を賜り、大正3年、71歳でなくなり、正二位勲一等旭桐花大章を贈られました
プロシァ貴族の出であるエリザベート夫人との間に娘ハナがいます(この時代にハーフかあ)
青木の私生活と公的生活のある部分は、森鴎外の小説「舞姫」に投影していると思われる節があります
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★松が崎萬長(1858~1921)
萬長(つむなが)は、堤哲長の二男として京都御所近くの堤邸に生まれました
幼名を高丸といい、禁中児を務めました
慶応3年(1867)、孝明天皇の遺により新家を創立し、家号「松崎」を称します
明治4(1871)年、ドイツ留学を命じられた萬長(当時は延歴)は岩倉使節団とともに渡欧し、明治6(1873)年~明治17年(1884)年まで
(つまり15歳から26歳まで、青春時代のほとんど全て)の12年間をドイツで過ごしました(明治の時代に羨ましいなあ)
ドイツ・フランクフルトの町並
この間、ベルリン工科大学で建築学の理論を学び、さらにドイツの建築マイスターに師事して、設計・施工・工務など、実践的な建築技術を学び、別荘などを設計しました
(ドイツの建築マイスターになるには、決まった格好と限られた道具のみで、徒歩で放浪をして、あちこちの地方の師匠について、建築の武者修行を3年くらいする、という伝統があるらしい、ホテルも泊まるのはNGなので、女性でも野宿とかするそう)
帰国後は、皇居御造営事務局を経て臨時建築局に勤務し、初代工務部長として、ドイツの建築技術の導入に尽力しました
一方、造家学会(現在の日本建築学会)の創立委員として核的な役割を果たし、会の創立と発展に寄与しています
また、自らもドイツスタイルの建築を設計・監督して作品を残しています
その代表作は、国内では七十七銀行(仙台)、晩年に建築活動を行った台湾では台湾鉄道ホテルですが、いずれも現存しません
この青木本邸は、萬長の本邦唯一の貴重な遺構です
松が崎萬長は、明治期の日本の建築の近代化過程において重要な役割を果たした建築家です
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青木さんという方は今聞いてもすごい経歴の方ですね
やはり明治の要人というのは長州か薩摩出身ですが、この方も長州出身ですね(今の安倍総理も長州関連だ、現代も続いている、恐るべし長州藩)
それだけ当時の教育レベルが高い地域だったということでしょうね(後は幕府を倒してやろうという気概が江戸の260年、ふつふつと連綿と育まれていたという土地柄か)
その後は国の要人として国に育てられたエリートといった感じでしょうか
明治の日本と欧米を結ぶ架け橋として活躍されたようです
自身の人生が「舞姫」のようだったというのが気になりますね
建物の方はまさに白亜の洋館で外壁がスレート貼りなのが珍しいですね
この外壁にスレートを貼るというのは今はなき宮城県石巻市雄勝町の産地にもありました(JR東京駅の屋根も石巻のスレート)
基本的に日本のスレートというのは宮城産なのでそちらからの文化だったのかも知れません
でもスレートというのは藍色なのでそれを白いペンキで塗っているというのがここのオリジナルですね
1階 廊下 ベランダに出られる
外観はかなり大きな印象でベランダも付いてコロニアル風です(東南アジアの欧米人の植民地建築風とでもいおうか)
同じ栃木県内のJR日光駅と似ていると思うのは私だけでしょうか
建築家の方も若い頃のほとんどを欧州で過ごしただけに本格的な意匠が素敵で、さすがは国・重文だと思いました
ここ周辺の敷地一帯が青木家のものだったそうでさすがは貴族を目指しただけあると思いました
洋館・別荘・スレート好きの方にもオススメです(^^♪