★時代が許さなかった晴れれば釣りの隠遁生活★
旧所在地・ 静岡県静岡市清水区
明治村電話・ 0568-67-0314
竣工・ 大正8年(1919)
構造・ 木造2階建て
設計、施工・ 京都の大工
入村料・ 1700円 9時30分~17時 *当時の情報
最終訪問・ 2012.03
二度の総理大臣を経て、政治の表舞台から退いた西園寺は、大正8(1919)年頃、静岡県興津の東海道沿いに「坐漁荘」を建てました
「坐漁荘」とは、「のんびり座って釣りをする」という意味で、隠遁の日々、趣味三昧の日々を期待していたのでしょう
大正11年には、御殿場・便船塚にも別荘を持ちました
直後の関東大震災で倒壊しましたが、近くの農家を移築して再建
竹藪と老松に囲まれた別荘にはあえて名も付けず、「藪の中の草庵」と呼びました
ここは主に夏の別荘、京都は秋、冬は温暖な興津で過ごすというのが、大正末ごろからの恒例行事でした
西園寺の号は、陶庵
中国の詩人・陶淵明にちなみました
ほかに竹軒という号も持ちました
竹は、西園寺の好みだったようで、京都の大工を呼び寄せて造らせたという「坐漁荘」にも随所に竹の意匠が凝らされています
贅を尽くされた建物ですが、決して派手さはなく、その規模も、敷地330坪、建坪70坪と、当時の政治家や実業家の別荘・別邸に比べれば、質素なものでした
公家出身で、自分のことを「こち」と称した西園寺ですが、意外な側面もあります
公家のたしなみであった和歌や国文の世界にはほとんど関心を持たず、生涯、和歌は詠んだことがありませんでした
むしろ俳句派で、江戸時代に流行し、明治以降すたれつつあった「附句」の師匠についていました
幕末まだ攘夷盛んな頃、洋服を着るのが最も早かった公家も西園寺です
参内に洋服を着たことをたしなめられると「洋服が1年以内に朝廷の礼服にならなければ切腹する」と啖呵を切ったこともあります(さすが重鎮)
維新前から留学を希望していた西園寺は、維新後やっとその許可を得ます
20歳代のほとんどをフランスやヨーロッパで過ごしたことも、西園寺の教養や趣味、味覚にまで磨きをかけました
「坐漁荘」にも昭和4(1929)年、フランス風の洋室が増築されました
フランス風とはいえ、宮廷風ではなく、質実剛健とした執務室の風情
この時代には、元老に列せられていたので、関係者の「興津詣で」も増え、実務的な部屋も必要だったのでしょう
それでも、一人でトランプに興じたり、ドライブを楽しむこともありました
車好きで、4年に1度は車を買い替え、ダイムラー、キャデラック、パッカード、リンカーンと乗り継いだというエピソードも残ります(この時代は国産車はないので、すべて外車で贅沢だなあ)
特別扱いされるのを嫌い、興津では、理髪店や、書店に1人で出かけました
昭和初期、要人の暗殺も相次ぎました
「坐漁荘」の警備も厳重になり、二・二六事件勃発時には、60名もの警官が専任で警備に当たり、海には沿岸警護船まで待機しました
「坐漁荘」 実は竹に見えて内部には鉄棒が
が、時代は、それを許さなくなっていきました
物々しい警備は西園寺が晩年の別邸暮らしに意図したものとは正反対だったに違いありません
時代もまた、西園寺の思いとは逆方向に進んでいました
彼は公家最後の元老だったそうです
*
一見、近代和風ですがところどころに洋風の要素があり大正時代という時代を感じる建物です
それに加え、防犯も考えられた建物というところも見どころですね
まるで良い老舗旅館や料亭のような素晴らしい木造建築で素敵です
時間があれば中に入って見学してみたかったです
きっと豪華なお金のかかったすごい内部なのでしょうね
当時はお金を使うところがあんまりなかっただけに家や車につぎ込んだのでしょう
毎年秋は京都、夏と冬は温暖な静岡県静岡市の興津で過ごすなんて日本海側の人間からしたら夢のような人生ですね
家主の西園寺さんの人生もたぐいまれなすごい人生でそちらも気になります
ハイカラぶりもカッコいいしこの時代に海外滞在とかすごすぎです
さすがは公家さんの超上流階級の出だけありますね
邸宅・別荘・近代和風建築好きの方にもオススメです(^^♪