スガタ・カタチ・色・実体がないモノについて、そのそんざいにたいして気がついて、にんしきし、はあくするということは、カンタンなことではない。

 

 コレはつまり、道ばたにあるという小石・草花を見るとき以上に、よりつよく、いしきして、チャントさがそうとしていなければ、「どんなタイプのモノが、どこに、どれだけあるのか」ということば、わかるはずがない。

 

 だからこそ、じぶんがもっている運や縁について、つよくいしきし、気にかけなければならないはずである。

 

 世のなか・しゃかいには、「運なんてモノは、そんざいしていない。すべてはじぶんのガンバリやどりょく、ずのう・のうりょく・さいのう・知能、じつりょく次第だろう」という視点・発想・かんがえかた・スタンスをもっているタイプのニンゲンもいる。

 

 だがしかし、しゃかいにたいして出ていって、シゴトをしてはたらくようになると、それこそ、「じぶん自身のひっしのガンバリ・どりょく、ずのう・のうりょく・さいのう・知能、じつりょくでは、どうしようもない。どうにもならない。今のこの状況・もんだいに、うまく対処・たいおうし、かいけつすることができない」という事態に、かならず直面し、けいけんすることになる。

 

 こういうときにこそ、どうやらニンゲンは、運や縁のことについて、真剣にかんがえるようになる。つまり、運や縁のそんざいに気がつき、にんしきするようになる。

 

 とはいっても、あたりまえのことではあるのだが、運や縁というものは、スガタ・カタチ・色・実体がない。そのために、目でみたり、手でさわることができない。そのために、にんしきし、はあくすることがむずかしい。

 

 だからこそ、フダンから、じぶんのもっている運や縁について、真剣にかんがえ、にんしきし、いしきをしなければならない。そうでなければ、スガタ・カタチ・色・実体のないモノのそんざいに気がつき、にんしきし、はあくすることができるワケがない。

 

 こういう視点・発想・かんがえかた・スタンスに立ってみると、どうやら、「幸運・チャンスをつかみ、手にいれるのがうまい」というタイプのニンゲンになるのは、フダンのココロがけ次第なのかもしれない。