ニンゲンが、なにかのそんざいについて、つよくいしきし、にんしきするようになれば、もしもソレが、どこかにホントウにそんざいしていたとき、しぜんと、じぶんの視界にはいってくるようになる。

 

 ソレはまるで、それまでは、たとえ見えており、視界にはいっていたとしても、そのそんざいにたいして気がつかず、まったくにんしきしていなかった、道ばたにある小石・草花のことが、目にはいってくるように。つまり、「ここにあったのか」とはあくし、にんしきするようになる。

 

 キケン・もんだい・トラブル・モメごとなどが、じぶんにたいして、つぎつぎにやってきてしまう。そういう不運・不幸な状態というものが、ずっとつづいてしまっている。

 

 そういうタイプのニンゲンは、世のなか・しゃかいに、たくさんいるかとおもわれる。そして、そういうケースにおいては、ダレであっても、「なぜじぶんだけが、こういうヒドイ目に遭ってしまうのか。こういう状態に陥ってしまうのか」ということを、かんがえるはずである。それこそ真剣になって。

 

 ニンゲンが、不運・不幸な状態というものに、ずっと陥ってしまっているとき、そのりゆう・げんいんは、イロイロあるかとおもわれる。もしかしたら、ひとつだけではないかもしれない。

 

 だがしかし、おそらく、もっともおおいモノとして、「悪縁」があるかとおもわれる。きょくたんなハナシになるかもしれないが、ニンゲンが、不運・不幸な状態というものに、陥ってしまっているとき、そのりゆう・げんいんの80%近くは、悪縁になるのかもしれない。

 

 どうやら悪縁こそが、ニンゲンを、不運・不幸な状態にしてしまうようである。ということであれば、あたりまえのことではあるのだが、悪縁というものを、キレイ・サッパリと、切りすてなければならない。コレは、いいかたを変えれば、悪縁をつぶし、けずり、消去するのである。

 

 だがしかし、こまったことに、悪縁というものは、スガタがなく、カタチもないのである。そのために、目でみることができないモノである。実体がないために、はあくすることがむずかしい。

 

 果たしてじぶんには、今げんざい、どこに、どれだけの量の悪縁があるのか。あるいは、どのニンゲン・そんざいが悪縁にたいして該当するのか。ということが、なかなかわからないのだ。

 

 たとえば、表面上は、まったく悪縁にみえないタイプのニンゲン・そんざいであるのだが、だいぶあとになってから、「アイツとかかわってから、イロイロと、キケン・もんだい・トラブル・モメごとが発生したり、巻きこまれるようになった」ということが、わかるケースもあるであろう。だがしかし、そのときは、サッパリわからない。なにせ悪縁には、スガタ・カタチ・色・実体がないのだから。

 

 そうはいっても、「あとになってから、ヒドイ目に遭い、やっと悪縁だとわかり、気がついた」というのでは、やはりおそい、できることならば、そのあいてが悪縁だと、すぐに気がつかなければならない。

 

 詐欺師に会ったときに、コトバたくみに詐欺に引っかかり、おカネをうしなってから気がついたのでは、「時すでに遅し」である。

 

 ということであれば、やはり、イザじっさいに、おカネをはらうまえのだんかい・時点で、そのあいてが詐欺師であると、つまり「悪縁」であると、気がつかなければならないはずである。

 

 こういうことは、何人も、何度もイロイロなタイプのニンゲンに会い、良いことも、ワルイこともふくめて、イロイロな目に遭わなければ、身につけることはできないのかもしれない。

 

 そして、そのときに、「このニンゲンと会ったり、かかわったりすると、どうもプラスの良いことがおきた」であるとか、ぎゃくに、「このニンゲン会ったり、かかわったりすると、まいかいかならず、マイナスのワルイことがおきている」ということを、フダンからよく気にして、見るようにしなければならないであろう。

 

 どうやら、そのあいてが、じぶんにとっての良縁であるのか、それとも悪縁であるのかは、じぶん自身ではんだんするしかなさそうである。