悪縁というものは、スガタ・カタチ・色・実体がない。そのために、目でみることができないし、手でさわることもできない。

 

 ということであれば、どうしても、「じぶんには、一体どこに、どれだけの量の悪縁がそんざいしているのか」ということが、ハッキリとわからず、にんしきすることができない。

 

 そのために、じぶんの悪縁というものを、キレイ・サッパリと、キッパリと断ちきることはむずかしい。

 

 そして、じぶんの悪縁というものを、キレイ・サッパリと、キッパリと断ちきることができないのであれば、しぜんと、その悪縁がもたらのであろう、すキケン・もんだい・トラブル・モメごとが、つづいてしまうカタチになる。

 

 ということであれば、やはり、「不運・不幸な状態というものが、ズルズルとつづいてしまう」というカタチになる。

 

 コレでは、いつまでたっても、不運・不幸な状態をおわらせることができず、運を上げることはできないであろう。

 

 だがしかし、じぶんの悪縁というものを、正確にはあくすることはむずかしい。ということであれば、そもそもの前提として、「じぶんにたいして悪縁が、近寄ってこないようにしたい」という視点・発想・かんがえかた・スタンスがでてきそうである。

 

 あるいは、もうすでに、じぶんの近くに悪縁がそんざいしているのであれば、「その悪縁が、しぜんに消滅するようにしたい」と、かんがえるようになりそうである。

 

 このためには、おそらく、むかしからいわれている「類はトモをよぶ」というコトバが、カナリ役に立ち、有効で効果的なのかもしれない。

 

 どうやらニンゲンは、無いしきのうちに、じぶんとよく似たタイプのニンゲンを見わけるようである。「じぶんとよく似たニオイを、ビンカンにかんじとる」といいってもいい。

 

 そして、じぶんとよく似たタイプのニンゲンを、もしもみつけたのであれば、そのあいてに近づいていき、仲よくしようとする。

 

 さらにいえば、そういうニンゲン同士は、おそらく根っこにある思想・かちかん・かんがえかた・性格などが、とてもよく似ている。つまり、共通点・類似点などがおおい。

 

 そのために、イザ出会ってしまえば、あっとう間に意気投合し、仲よくなりやすい。なにせ、共通する話題もおおく、ハナシがしやすいのだから。

 

 ということであれば、もしもじぶんのまわりに悪縁がおおいとかんじたのであれば、ソレは、とてもざんねんなことではあるのだが、じぶん自身のないめんに、そういう悪縁を呼びよせ、ひきよせ、あつめてしまう、「なにか」があるからかもしれない。

 

 ならば、そういう悪縁を近づけさせず、断ちきるためには、まず第一に、じぶん自身のないめんを、なんとかすべきかもしれない。じぶん自身のワルイ点・ぶぶんを、なおしていくしかなさそうである。