むかしから、「悲運の天才」というイミのコトバがある。コレは、スゴイずのう・のうりょく・さいのう・知能をもっているのだが、運がワルイために、おおきな勝利・成功を収めることができず、不遇のうちにヤメていんたいしたり、死んでいったニンゲンのことを、指しているかとおもわれる。
つまり、こういうタイプのニンゲンは、むかしから、あらゆるジャンル・ぶんやにおいて、たくさんいたかとおもわれる。だからこそ、こういうコトバがひろまり、かつ、のこっているのであろう。
このコトバからわかることとして、「どうやらニンゲンは、運にはかてない」ということがある。もっとぐたいてきにいえば、「ニンゲンのもっている、ずのう・のうりょく・さいのう・知能が、どれほどすごかったとしても、運にはかてない」ということかとおもわれる。
そして、運と縁というものは密接にかんけいしている。どうやら、いちまいのコインのウラ・オモテのかんけいに近いのかもしれない。
運が良いニンゲンは、良い縁にもめぐまれる。コレとはぎゃくに、運がワルイならば、ワルイ縁もふえてくる。さらにいえば、幸運・チャンスというものは、良い縁がもってくるケースがおおく。不運・不幸・ピンチというものもまた、ワルイ縁がもってくるケースがおおい。
きょくたんなハナシになるかもしれないが、どれほどアタマのよいニンゲン、たとえば、すさまじい大天才・大秀才であったとしても、運が悪ければ、どうしようもないのかもしれない。それこそ「悲運の天才」として、たいしたことはできそうにない。
ということであれば、ダレであっても、運をさげず、運を上げることを重視し、たいせつにすべきかとおもわれる。
そして、不運・不幸・ピンチというものは、カナリのわりあいで、ワルイ縁がはこんでくるのである。ぐたいてきにいえば、キケン・もんだいのあるニンゲンが、もちこんでくるのである。
ワルイ縁・悪縁こそが、じぶんにたいして、たくさんのキケン・もんだい・トラブル・モメごとを、勝手にはこんでくるのである。つまりは、じぶんを不運・不幸な状態にするのである。
ならば、なんとかして、じぶんがもっている悪縁を、チャントけずり、つぶし、消去しなければならない。
だがしかし、悪縁というものは、目でみたり、手でさわることができない。そのために、「どこに、どれだけ、どういうタイプの悪縁がそんざいしているのか」ということが、サッパリわからないのだ。
おそらくコレは、どれほどスゴイ大天才・大秀才であっても、正確にはあくすることはできそうにない。
そういう悪縁というものを、なんとかしてはあくして、チャント切らなければならない。そのためには、どうやら、ずのう・のうりょく・さいのう・知能のたかさよりも、もしかしたら「もんだい・もくてき意識のつよさ」のほうが重要であり、たいせつになるのかもしれない。
つまり、「じぶんには一体、どこに、どれだけの悪縁があるのか」という、もくてき・もんだい意識を、つよく、そしてチャントもてるかどうかにかかっていそうである。