じぶん自身が、なにかをやったワケではない。それなのに、キケン・もんだい・トラブル・モメごとに巻きこまれてしまい、ツラク・くるしい目に遭い、おカネもなくなり、つかれはててしまった。そして、心身ともにボロボロになり、シゴトをヤメるハメにもなった。
こういうケースをたいけんすると、ニンゲンは、いやがおうでも「悪縁」についてかんがえ、いしきし、気になるかとおもわれる。
なにせ、「じぶん自身がなにかをおこない、ソレがミス・しっぱいし、裏目にでたりして、状況が悪化した。そのために、ヒドイ目に遭ってしまった」というワケではないのだから。
もしも、じぶん自身がなにかをおこなって、その結果として、ヒドイ目に遭ってしまったのであれば、あるていどは、なっとくすることができそうである。「オレがバカだった。もっとシッカリすべきだった」などと、じぶん自身の未熟さ、いたらなさ、不用心さなどを反省し、つぎに生かせそうである。
だがしかし、じぶん自身が、なにかをやったというワケではない。それどころか、じぶんではなにもやっていない。たにんが勝手に、じぶんにたいして、たくさんのキケン・もんだい・トラブル・モメごとをもちこんできた。そして、その結果として、これらに巻きこまれてしまい、ヒドイ目に遭ってしまった。
と、こういうケースにおいては、「じぶんがなにもしていないのに、ヒドイ目に遭ってしまった」というカタチになる。となればニンゲンは、なっとくすることができそうにない。
なっとくすることができず、かといって、おきてしまったことを、すべて無しにして、ゼロにすることはできない。
そのために、「しかたない、なるようにしかならない」とかんがえて、いわば、あきらめのキモチ・感情をもつかとおもわれる。
だがしかし、ここで気になるのは、「またおなじようなことが、似たことがおきないだろうか」ということである。そして、悪縁がもたらしたキケン・もんだい・トラブル・モメごとならば、その悪縁がそんざいしている以上、「また似たようなことが、じぶんにたいしてやってくる」という可能性・リスク・キケン性は、カナリたかいかとおもわれる。
なにせ、ソレをもたらしたという「りゆう・げんいん」が、まだそんざいしているのだから。あたりまえのことではあるのだが、りゆう・げんいんがそんざいしている以上、似たようなジケン・できごと・事象・現象などが、ふたたび起こったとしても、けっしてフシギではない。
悪縁がそんざいしている以上、ふたたび似たようなジケン・できごと・事象・現象が、じぶんにたいしてやってきてしまう。その可能性・リスク・キケン性がたかい。ということであれば、やはり、その悪縁というもの自体を、まるまるけずり、つぶし、消去するしかない。
そうしなければ、ニンゲンは、似たようなワルイできごと・ジケン・事象・現象に、何度もおそわらることになる。つまり、不運・不幸な状態というものが、ずっとつづいてしまいかねないであろう。