いつもブログをお読みいただきありがとうございます。


今日は前回に続き父からの最高の教育についてお話します。この前は父が亡くなったところまでお話し


しました。


結局一睡もできず朝を迎えました。やがて次々届けられる花輪の並べる場所の指示やかごもりの受け取


り追われにわかに忙しくなりました。



葬儀の準備などは近所の人たちがほとんどやってくれて通夜が始まってからは弔問客への挨拶、対応が


喪主としての務めでした。



私の性格のせいか、頭が疲れていたのかわかりませんが、時々葬儀のことでわからないことが出てくる


と、一瞬、これ父に聞こう!と思う自分に「死んでおらんちゅうに」と突っ込むことがたびたびありました。



生前の父にお世話になったと肩を落とされる方や、父の素晴らしさをこれでもかと、伝えて下さる方など、


たくさんいらっしゃり、父が本当に多くに方に愛されていたかを改めて知ることができました。



葬儀のすべてが終わり夕方に実家で親戚一同で食事をしている時、母が父が亡くなる一日前に「何か


あったら使うように」とヘソクリのある場所を伝えたことや、いつも昼間にしかしないのにその日は夜になっ


てからボイラーに石油を満タンにいれておいてくれたことを不思議そうに語ってくれました。



父はもちろん自分が翌日死ぬとは思わなかったでしょうが、父の魂が父をそのようにさせてのではと思わ


ざる負えない出来事でした。



そんな中で叔父が私と弟に「お父さんは最高の教育をしたね」と今回の父が亡くなったことを、そう例えて


くれました。その時は何んとなくしかその真意を理解できなかったですが、叔父の言葉通り父の死は最高


の教育だったと確信できるような道へと私は進んで行くのでした。


(続く)




いつもブログをお読みいただきありがとうございます。久しぶりの投稿になります。


今日は父からもらった最高の教育についてお話します。


平成7年の4月5日朝、私はいつも通り会社に出勤し営業に出る準備をしていました。


会社の電話が鳴り、上司から私の弟からだというので電話に出ました。


弟の不安そうな声で父が朝倒れて病院に運ばれたということを聞かされ、すぐ営業車を所定の位置に戻し病院へそのまま向かうことにしました。



その時自分では冷静なつもりでしたが、車のキーがアクセサリーより一つ回したONの状態のままになっていて後日出勤後バッテリーが上がってしまってました。



病院に駆けつけると母と弟が神妙な顔で病状を医師から聞かされ、クモ膜下出血で手の施しようがないと告げられました。

私は「万に一つも助かる可能性はないですか」と聞き返しましたが、医師の答えはないとのことでした。



しばらくベッドの横で意識のない父を見守りましたが一度帰宅することにしました。

自宅で夕ご飯を食べていると母から病院にすぐ来るように電話があり、すぐ病院へ向かいました。



病院に着き、廊下を走りながら病室の少し手前まで来ると母が手で×の文字を示したので、父が死んだんだとすぐわかりました。


私はこの時点で頭を切り替え、長男として初めての葬儀の準備のことを考え始めました。



父の死は私にとって非常に大きな出来事にも拘らず、悲しみやつらさを感じることがあまりなく涙もでてきませんでした。まるで思い切り鈍器のようなもので頭を殴られ気を失っているかの状態でした。

ただその日はいろんな思いが掛けめぐり、生まれて初めて一睡もできない夜を過ごしました。

(続く)



いつもブログをお読みいただきありがとうございます。


今日は22歳で大学を卒業し働き始めたころのことを書きます。


私は社員が1,500名ほどいる大手清涼飲料水メーカーのルートセールスとして働き始めました。


毎日4トントラックに乗りスーパーや小売店、酒店に商品を配達していました。


時代はバブルに向かう頃と会社が圧倒的なシェアを誇ることから、今考えるとお客さんへの対応もおせじにもいいとは言えなかったと思います。


お盆前の頃は配送前に「今日は地獄」という言葉も飛び交うほど大変で馬車馬のように働く日々でした。

 

その時期を過ぎ、秋になると自動販売機のセールスキャンペーンが始まります。

この時期はある意味で夏場以上に地獄でした。まだ一日の配送量もまだ秋口は多く、その中で1軒1件店の配送中にパンフレットを出して自動販売機のセールスをしなければなりません。


その頃は無償貸与するのは大手のスーパーだけで一般の店舗はすべて買ってもらっていました。


セールストークも何も関係なく売るということが、優先され、とにかく粘って売って来てました。

一か月にかかる電気代も、予想される売り上げも売るために会社都合の数字で説明するのが当たり前でした。


数字が上がらない時の週末の心情は「1台売れたら、たとえ自分の寿命が1年縮まってもいい、いや5年でもいい」と架空の話を想像しながら訪問していたのを思い出します。


もし本当にそれが可能なら当時の私は、迷わず親にも相談せず1台売ることを選んでいたと思いますが、その時その時に集中していたし、いい意味でも悪い意味でも当時の私は後先を考えないところがあったと言えます。


それによってその後数多く失敗し学び成長しいたと思います。父が私に「慎重に」と「計画を立てる」ことを

時々言ったことはそんな私へのアドバイスだったと思います。


今振り返ると、この若いころの経験もやはり大きな財産になっていました。