第9回山南忌☆2日目は大阪史跡巡り③ | 今ここに生きる理由がきっとある

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今さら感満載なんですけど汗  続きです。




午後は八軒屋・京屋跡・三橋楼などを廻りました



この辺は前回も行っているのでレポは省略させていただきます。


詳しくは→ こちら


八軒屋から三橋楼へ向かうこの階段の凹んでいる部分

これ、常夜燈が置いてあった跡なんだそうです。


これ。




竹式楼跡  【中央区北浜1-1】

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まったく当時の面影は残っていないので、写真もどこを撮っていいのか分からずwww 


安政5年12月27日、備中松山藩(今の岡山県)の山田方谷先生を訪ねるために、長岡藩(今の新潟県)を出発した河井継之助さんは安政6年7月5日に大阪に到着。6日に竹式楼に宿泊。



今月末、河井さんに会いに長岡に行ってきま~す キター Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!!




この辺りが岩城升屋跡  【高麗橋1】 

文久3年、岩城升屋に賊が入った時、京屋に滞在中だった新選組は山南さん他3名が駆けつけ、斬りあいに。

この時に受けた怪我により、第一線を退いたと言われています。




大阪会議終結の地 加賀以跡(花外楼) 【中央区北浜1-1-14】


このレリーフの隣のビルです

明治も結構勉強してきてるので、この場所はテンション上がったー上げ上げ

大阪会議って何?って人がほとんどだと思うので、ここで説明パー 



細かく説明すると時間かかるし面白くないので、ざっくりと。間違ってたらごめんなさいね~。



発端は明治4年に行った海外視察、岩倉使節団。



この時、使節団の留守中に大きな改革や重要な人事異動はしないようにと約束されて、出発して行ったんですね。


が、そんな約束は残留組は守っていませんでした!!



明治6年8月、 使節団が不在中にも関わらず


朝鮮に対し国交要求を受け入れるよう説得するために、西郷さんを朝鮮へ派遣しよう!と決定してしまったのです。


これは西郷隆盛を中心として板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣が主張した征韓論が発端。


※征韓論=朝鮮を武力で開国させよう!という主張。西郷さん的には出兵ではなく、あくまでも交渉で。って考えだったみたいです。


翌月帰国した使節団はびっくり( ゚Д゚)ぽかーんです。


ちょっと待ってちょっと待って西郷さん、征韓論ってなんですの? ←上手いこと替え歌出来た。と思ってるwww 



帰国組は大反対。



反対派の意見は まず国内の整備が先でしょう! です



10月に行われた閣議では、三条実美さんが西郷さんを朝鮮への派遣を決定させます。 (この時期のトップは太政大臣の実美さん)



それに反対した大久保さん、木戸さん、大隈さんたちも辞表を提出。岩倉さんも辞めたいと言い出す始末。


ここでついに実美さんダウン怖い



代わりに岩倉さんが太政大臣に就任。ゴリ押しで西郷さんの朝鮮派遣は延期と決定しました。



このことによって西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣は下野


(下野=げや。官僚を辞めて一般人に戻ること)


これを明治6年の政っていいます。



ここから明治政府は迷走がさらに加速あせるあせる



退助は愛国公党を結成。自由民権運動を開始。


島津久光は訳わからん事言ってくる。


おまけに佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱などの士族の反乱で国内は大混乱


士族の不満に対応するため、大久保さんと大隈さんは台湾出兵を主張。


これに反対した木戸さん (またかよw) が、ついに下野。山口に帰ってしまいます。



気付けば主要メンバーで残ったのは大久保さんだたひとり・・・ガーン!! 



さぁ、どうなる 明治政府!?



ここで、立ちあがったのが俊輔&聞多 (この時はもう伊藤博文&井上馨だけど)


聞ちゃんはこの頃、大阪で実業家として成功していました。

(最初、大蔵省にいたんだけど、江藤新平と対立して辞職に追い込まれた。江藤さんが下野した後、復活)


明治政府のグダグダっぷりを、これじゃぁいかん、何とかしなければ。と2人で考えたのが


木戸さん、大久保さん、退助を引き合わせて大阪で会談をさせようビックリマーク計画。



大久保さんはこの計画に大賛成。

(そりゃ、そうでしょう)


聞ちゃんは木戸さんを説得するために山口へ。


退助の仲間にも協力してもらって退助を大阪へ呼び。



大阪では五代友厚が協力。


(五代さんについてはこの後、説明しますね。この場はスルーしちゃいます)


自分の家をミーティングの場として提供。大久保さんは五代さんちで準備。 俊輔はやっぱりパシリであちこち飛び回り。



1か月間に渡るミーティングを重ねて

そして、ついに明治8年2月11日


大久保・退助・木戸の3人で大阪での会議が行われました。



ようやくここで三権分立に基づく改革案が合議されたのでした。


おめでとう~~~~クラッカー 



(参考:衆議院憲政記念館の頂き資料、大河ドラマ・八重の桜、萩・幕末維新検定テキスト)



たったこれだけの碑でも、めんどう・・・大変な物語があったんですねぇ



そして、ここまで読んで下さった方


ありがとう~~~~合格



というわけで、レリーフに俊輔と聞ちゃんがいるんですね。



これで政府も方向性が決まったかというと、そうでもなくて、数か月後むかっには崩壊してしまうんですけどねあせる



つづく