嵐のような拍手喝采が轟いた。
Für eine Weile、自分が何処にいるのか記憶が飛んだ。
観客のスタンディングオベーションが不思議に見えた。
何故みんな立ち上がっているのだろう……。ああ、そうだ。きっと歌が酷すぎて、呆れて帰ろうとしているんだ……。やっぱりボクには無理だったんだ。一週間じゃ足りなかったんだ。最初から分かっていたことなのに……。
それから、誰かに名前を呼ばれた。そして、舞台袖に連れて行かれた。
ボクの腕を引っ張るのは誰?
クラウス……?
薄暗い舞台袖に、椿姫が佇んでいる。
ベルベットのカーテンは、そよりとも動かない。無遠慮なスポットライトの真下で、カルテットが演奏している。第一ヴァイオリンはショートヘアの女性だった。
この曲は確か、シューベルトの『死と乙女』……。死と、乙女……。
「おい、ユリウス」
「え……?」
「大丈夫か? 震えてるぞ」
「え……」
ほっそりとした指を、大きな手のひらが包み込んで握り締めた。
「相変わらずだな。お前の緊張しいは」
第二楽章が始まった。
「ボク、どうしよう……。貴方がいないと歌ひとつ満足に歌えない。貴方がいなくなったら、舞台にも立てない。貴方がボクの前から消えたら……」
クラウスは、右手をすっと、ユリウスの首筋に差し入れた。
「冷たい」
滑らかなうなじに指を這わせる。ここから、あれほどの声が出るのか。とクラウスは思う。喉だけで歌うわけではないけれど……。
少しずつ少しずつ温めて、親指と人差し指で柔らかな頬をきゅっとつまむ。紅い唇が僅かに尖る。
「温まってきたな」
「う、ん……」
ユリウスの表情も和らいできたようだった。
クラウスは、ユリウスよりも頭一つ半分、背が高い。なので彼女を見下ろすと、自ずと胸もとの影までへも視線が届く。
彼女が纏ったドレスで、先ず目を惹くのは、その鮮やかな色とボリュームのあるプリンセスラインだろう。しかし、クラウスにとってみれば、両肩を二の腕ぎりぎりまで露わにしたデザインは、「まるで裸じゃないか!」と叫ばずにはいられないほど大胆なものだった。
いったい何処で止まっているのか、歌っている途中で落ちてきたりはしないのか、そうしたら俺はどうすればいいのか。
クラウスは、控室で、その疑問を真っ先に口にした。
「馬鹿ねえ、落ちてきたりなんかしないわよ。このリーナさんが、しっかりきっちり着せたから大丈夫」
そう断言され、二人一緒に背中を押されて、ここまでは来たものの……。
「なあ、もうちょっと上に上げられないのか? それ」
「え? な……!」
彼の目線の行く先に、ユリウスは顔を赤らめ目を見開いた。
「無理だよ。動かさないでって言われたの。触っちゃ駄目。触ると緩んじゃうんだって」
長い指が伸びてきたので、やんわりと牽制する。クラウスは不服そうに眉根を寄せた。ユリウスは困ったようにくすりと笑う。
「ねえクラウス、ドレスのことなんて、ボクもよく知らないけれど、リーナはとても詳しいの。職業柄、出演者の衣装をチェックしたりするから、勉強したって言ってた。ボクのね、この肩や鎖骨が、一番美しく見えるのが、ここの位置なんだって」
ユリウスは、肩から胸へ五本の指を辿らせる。
「ねえ、ボクの躰のこと、一番知っているのは貴方だよね……。だから、貴方なら分かるでしょう? 貴方から見たら……どう……?」
「ユリ……」
無意識に手が伸びる。ユリウスは、その手を制した。
「触っちゃ、駄目」
「……綺麗だユリウス。そうだ。誰よりも、お前の躰を知っているのは俺だ。その肩から伸びる二の腕がどれくらい細いのか、この膨らみが俺の手の中でどんなふうに貌を変え、どんな魅惑的な味がするのか知っているのも、この俺だ。その髪に隠れた肌の白さも、腰の括れも、お前を包んだすべてのラインを想像できるのは──俺だけだ」
全身を、甘い視線が愛撫する。ユリウスは漸く治まりかけた頬がまた熱くなるのを知覚した。
「そ、そんなに細かく、想像しなくていいから……」
「やばいな。俺、お前が歌い終わるまで我慢できるかな?」
クラウスが、にやりと笑う。
「もう……、ばか……」
第四楽章が間もなく終わる。
「いいか、ユリウス。俺から絶対目を逸らすなよ。他の奴らは全員無視して、俺だけを見て歌え」
ユリウスは、真紅の花弁を指でなぞる。
「分かってる。ボクの、傲慢なヴァイオリニストさん」
彼女の表情が瞬時に変わった。片翼を悪魔に授けた天使のように。
クラウスは目を瞠り、瞬きを二度繰り返した。
出番の合図が告げられた。
今までのどの出演者よりも長身で体格の良いヴァイオリニストが登場すると、およそ半数の女性客が色めき立った。
続いて、というより、彼にほぼ重なるようにして(腰を抱いていたのでは? と前列の客が訝るほど密着していた)、金髪の椿姫が現れた。
スポットライト無しでも光り輝く金色の髪と蠱惑的な横顔に、観客は一斉に息を飲む。笑うように揺れる煽情的な赤のドレス。男も女も関係なく、感嘆の吐息を洩らした。
クラウスが両足を開く。
刹那の静寂。
ヴァイオリンが奏でを始める。ユリウスは目を閉じて、赤い花弁に手をやった。それから、ゆっくりと、深く息を吸い込んだ。
次の瞬間──すべての観客の頭上へ、艶やかな天使が舞い降りた。
ヴァイオリニストと歌姫は、それが自然なことのように躰と躰を向かい合わせた。
伴奏者が、まるで相手役の青年貴族のようだった。それほどまでに彼女は彼を見つめ続け、彼もまた彼女から目を離さなかった。
彼のためだけに彼女は歌い、その歌に彼は酔った。長い睫毛に烟る瞳。桃色の頬と紅い唇。今すぐにでも抱き締めて攫っていきたい……、それを必死で押し止めた。
ストラドの弓と弦、そして指が、宙に躍る五線譜を一本残らず搦め取り、また跳ね上げる。
扉を僅かに開けるだけで、風を泳いでいきそうな軽やかで澄んだソプラノ。とどまることを知らない声の色。鳥肌が立つほどの緩急の波と、華奢な腰からは想像できない伸びやかなビブラート。
その圧倒的な歌唱力は、ホール中の観客を一人残らず虜にした。
彼女の背中が終始客席を向いていても、誰一人不満を漏らす者はいなかった。寧ろ、演出の一つだろうと信じて疑わなかった。
ユリウスは、自信に満ちたヴィオレッタを完璧に演じ切った。
それから──彼女の視界から周りの景色が消えた。
結局、ユリウスの躰が観客側に向き直ったのは、登場後のカーテシーの時だけだった。
「どうしよう。拍手が鳴り止まないわ。この後は、演者全員で挨拶に出ないといけないのに」
狭い舞台袖の中を、リーナが行ったり来たりしている。
「アンコールだろう? 一曲歌えば済む話じゃないのか?」
カルテットのヴィオラ奏者が、さも当然のように口にした。
「簡単に言わないで! この二人は一週間前に決まったピンチヒッターなの。アンコールを準備してる時間なんて……」
「一曲だけでいいならあるぜ」
クラウスが、口を挟んだ。リーナが信じられないという顔をする。
「嘘でしょう?」
「こんな事もあろうかと、『椿姫』の合間に練習しておいた。俺の歌姫を見くびらないでもらいたいな」
「ほ、本当なの? ユリウス」
リーナがユリウスの顔を見る。
「うん……。三日前くらいに、いきなり別の楽譜を渡されて、ボクも驚いた。でも、まさか本当に歌うことになるなんて思わなかったけど……」
「曲名は……、いいわ。じゃあ任せていいのね?」
もう一度、リーナがクラウスを見た。
「愚問だぜ」
「二人とも、舞台へ出てっ!」
友人に背中を押された勢いで、ベルベットのカーテンが大きく揺れる。直後、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
先程と同じように、それが彼女のスタイルであるかのように、赤いドレスの歌姫は観客へ背中を向けた。
クラウスも同様に、彼女の真正面に立ち、両足を肩幅に開いて、ヴァイオリンと弓を構えた。
無音の帳。
ほっそりとした指が赤い花片を愛撫した。
アンコール曲:『Hymne a l'Amour(愛の讃歌)』作詞:Édith Piaf
Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer
(青い空が落ちてきても)
Et la terre peut bien s’écrouler
(この大地が崩れても)
Peu m’importe si tu m’aimes
(あなたに愛されていればかまわない)
Je me fous du monde entier
(世界のことなんかわたしは知らない)
Tant que l’amour inondera mes matins
(愛に溢れる朝が続けば)
Tant que mon corps frémira sous tes mains
(あなたの手で喜びに震えるのなら)
Peu m’importent les problèmes
(他の事などどうでもいい)
Mon amour puisque tu m’aimes
(愛しいあなたに愛されるなら)
椿姫一色で沸き上がったホールの雰囲気が、がらりと変わる。
セットも何もない空間に、燃えるような衣装の彼女の背後に、真白の百合が咲き誇った。
Si un jour la vie t’arrache à moi
(あなたが生命尽き引き裂かれる日が来ても)
Si tu meurs que tu sois loin de moi
(あなたが遠くへ逝ったとしても)
Peu m'importe si tu m’aimes
(あなたに愛されていればどうでもいいの)
Car moi je mourrai aussi
(その時私も死ぬでしょうから)
Nous aurons pour nous l’éternité
(永遠にあなたと居るでしょう)
Dans le bleu de toute l’immensité
(どこまでも広がる青い)
Dans le ciel, plus de problèmes
(空の中で心配することは何もない)
Mon amour crois-tu qu’on s’aime
(私たちは愛し合うでしょう)
Dieu réunit ceux qui s’aiment
(愛し合う二人を神が再び結びつけるでしょう)
身命を、運命を、生涯を賭してまで、想い人のもとへひた走る力強く真摯な無償の愛の歌。
一見すれば、まだ年若い彼女の何処から、そのような激しい戀情がほとばしり出るのだろうか。
アンコールの筈なのに、誰もが皆、まったく別人のステージを観ている錯覚に陥った。
さて、友人の歌に聴き惚れ、万雷の歓声に酔いながらも、リーナは自分の責務を全うすべく、普段はやらない舞台のカーテンを下ろし始めた。「これで公演は終了です」という周知の意味も込めて。
ところで、先刻からずっと、クラウスはユリウスから目を離せないでいた。しかし一方で、カーテンが下りてくるのも視界に捉えていた。
そんな絶好のチャンスを、この男が無駄にするわけがない。
勿論、しっかりと釘を刺されていたことは覚えていた。けれども、自制の糸は、とっくに限界を越えていた。
薄暗くなったステージで、ぼんやり映る白い顔に、唇だけが誘うように紅く艶めく。
彼は、椿から百合へ変貌した妖艶で美しい精霊を抱き竦め、彼女が水に還る直前に唇を奪った。
「やっ…め……」
「黙ってろ」
低音の囁きと熱い吐息がユリウスの唇を覆った。それだけで、躰の力の半分が、がくんと抜ける。
「だめ……、口紅……が」
「俺が、全部とってやる」
「や……」
林檎のつやを拭うように生温かい舌で撫でられ、その果肉を食すように小さな舌が搦め取られる。
ユリウスは身を捩ろうとしたが、ドレスが肌蹴るのが不安だった。抱擁は強くなり、がっしりと頭を摑まれて、彼女は抵抗を諦めた。
舞台上での、演者二人の熱烈なラヴシーンに真っ先に気づいたのは、(クラウスにとって運の悪いことに)リーナであった。
「こらーっ!! あなたたち、やめなさい! これから全員で挨拶するのよ!」
「悪いな、俺たちは最後でいい。他の奴らから先に済ませてくれ」
「何言ってるの! みんなでここに並んでから、もう一度カーテンを上げるのよ。さっさと離れてっ!!」
恋人と友人が揉めている隙を突き、ユリウスは、やっとのことで雁字搦めの腕から逃れ出た。
「もぉう、舞台ではやめてって言ったのにぃ! クラウスのばかっ!!」
思いもよらない場面を目の当たりにした出演者の面々が、身の置き所がなさそうに、こそこそと入場してくる。
カルテットの第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの男女は、興味なさそうに無表情で通り過ぎ、チェロ奏者の若い女性は、悪戯っぽい顔つきで、クラウスに向かってウインクをした。
最後に入ってきたヴィオラ奏者が、笑いを堪えながら、誰彼ともなく呟いた。
「彼女、歌っている時と全然違うけど、キュートだね」
その直後、彼が、クラウスに目で抹殺されたのは言うまでもない。
首どころか背中まで赤くなったユリウスと、抹殺されたヴィオラ奏者も含め、出演者全員が横一列に並び終わると、再びカーテンが上げられた。
拍手の波に押されるように、花束を持った人々が次々とステージに上がってきて、そのうちの二人がユリウスの前で立ち止まった。
「イザーク! ダーヴィト!」
ユリウスが、目を見開き、小さく叫ぶ。
「お前ら、いつの間に?」
クラウスも声を上げた。
「やあユリウス、久し振り。素晴らしかったよ。僕らの天使のソプラノは、今もなお健在だ」
ダーヴィトが手渡したのは、オリエンタルエクレールだった。
「あ、この薔薇……」
「覚えていてくれたかい?」
「勿論。ありがとう、ダーヴィト。でも、どうして……」
「親切な後輩から、連絡をもらってね」
ダーヴィトがイザークをちらりと見た。
「イザークが? じゃあ、あの日、ボクと会った後に?」
艶やかな椿姫のユリウスに接近され、イザークは最上級に狼狽えた。
「ご……ごめん、ユリウス。黙っていたら、絶対に後で恨まれると思ったから」
「それは確かに正解だ。その英断に感謝するよ、イザーク」
ダーヴィトがイザークの背中をぽんと叩く。イザークは、はっとして、花束をユリウスへ差し出した。
「わあ、パシュミナだ。可愛い! ありがとう、イザーク」
白とピンクの小輪の薔薇を見て、ユリウスは嬉しそうに微笑んだ。
「ユリウス、とても良かったよ。ゼバスのディスカントは、僕らの知らぬ間に、素晴らしい成長を遂げていたんだね」
──それに……、最高に綺麗だ。
妖艶な歌姫に見惚れながら、イザークは心からの賛辞を贈る。
「え、そう? そうかなあ……。でも嬉しい。ありがとう、イザーク」
「はは、本人は分かっていないみたいだよ」
とダーヴィト。
「おい、お前ら……、俺を無視してんじゃねえよ!」
クラウスが突然叫んだ
「おお、伴奏者君。全然気づかなかったよ」
ダーヴィトは大袈裟に両手を広げる。
「何だとう?」
「口紅がべったりだぞ、クラウス。まったく、お前の辞書には《自重》という文字はないのか?」
呆れ返った顔で差し出されたハンカチを、クラウスは「妬くな妬くな」と悪びれる様子もなく受け取った。
反対に、ユリウスの唇は綺麗さっぱり拭い取られ、素のままの薄桃色に戻っていた。ユリウスは真っ赤になって、花束で口もとを隠した。
控室のドアを開けると、テーブルの上の花束が目に飛び込んできた。
大輪の赤い薔薇。
燃えるような緋紅色に圧倒されてしまう。
ユリウスはダーヴィトとイザークから貰った花束をテーブルに置いた。それから、赤い薔薇の花束を手に取り、姿見の前に立つ。
──真っ赤っかだ。
赤いドレスと椿の髪飾り。そして赤い薔薇。
口紅の紅は盗られちゃったけれど……。
誰からだろう……?
そう考えるまでに、暫く時間がかかった。
花束の中にも、テーブルの上にも、贈り主の名前を記すカードらしきものはない。
「なんだか、ボクには不釣り合いみたい……」
リーナなら知っているだろうか?
ドアノブに手をかける直前で、彼女の言葉を思い出した。
『悪いけど、終演後は忙しくて相手ができないから自由解散ね』
うーん……、と少し考える。
──ここはボクの控室だから、ボク宛てってことだよね……。
ドアをノックする音に、びくん、となる。
「クラウス?」
言い終わる前にドアが開いた。
「なんだ、まだ着替えてなかったのか?」
「うん……、ちょっと……」
ユリウスは花束をテーブルに置いた。クラウスはそれを一瞥する。
「もう少し後で出直そうか」
「あ、待ってクラウス」
「何だ?」
「あのね、ファスナー下ろしてほしい。リーナがいなくて……」
クラウスが急に真顔になった。ユリウスは気づいていない。
「その要求は、俺にとって鬼門だ。昔の苦い記憶が蘇る」
「え?」
彼女の部屋で箍が外れかけたこと。既のところで思い止まったこと。
ヴィルクリヒの顔も、未だに浮かぶ。若かったな──と思う。
「あんなの……もう時効だよ」
戸惑った顔で、ユリウスが呟く。
「時効か」
「うん……」
かちり。
と鳴る音。
「今、何したの……?」
「鍵をかけた」
「ど、うして……」
「ほら、背中向けろ」
ユリウスは、おずおずと後ろを向いた。
部屋に窓はない。クラウスは彼女の剥き出しの肩に左手を置いて、右手で髪を前によけると、ファスナーを下ろし始めた。その左手が既に熱い。
するり。
いとも簡単に、ドレスは肌を滑り落ちた。
「こんなんで、よく今まで落ちなかったな」
声は平静だ。憎らしいくらい。
クラウスは、脱がしたドレスを「借りものだからな」とハンガーにかける。ユリウスは、ベビーピンクのビスチェとアンダースカートだけになった。
くるり。
背後から肩を引き寄せられ、軽い躰が回転する。
親指と人差し指が、ビスチェのリボンを摘んだ。ユリウスは少し慌てる。
「そ、それは、自分で出来るから……」
「いいよ。ついでだ」
──ついで? 何の……?
クラウスは、姿見の横にあるソファにユリウスを座らせて、リボンを解き、緩やかな谷間に顔を埋めた。
ぴくり。
「お前、なんか果物の匂いがする。何だっけ、これ……」
「え……? あ、さっきの赤い薔薇かも。そう言えば強い香りがした……」
はらり。
すべてのリボンが取り去られ、膨らみと細い括れが露わになった。
視線と手が同時に進む。
満開を待つ二つの蕾へ。
「ね……それが、誰からか分からないの」
「後でいい」
困惑で揺れ動く碧色の瞳を見据え、唇を合わせて強く吸う。アンダースカートを両手で一気にたくし上げた。掠れた悲鳴。仄青い内腿が生成りのソファに影を作る。
本番前、目で愛したすべての場所へ、同じ行為を繰り返す。
手のひらと、
唇と、
指と、
舌と、
熱い息と、
嬲る指と、
蠢く舌と、
「ん……っぁ……」
上気するほど強く香る滑らかな絹の肌。花なのか、果実なのか。
温く湿る真紅の花弁。彼だけに聴こえる甘いあえかな喘ぎ。
「また……、駄目だろ。大事な指を……」
親指が薬指の噛み跡を優しく撫でる。最後の箍を外させないで。
──どうしてそんなに意地悪なの……?
「だめ……、聞こえ……、ふっ・・・ぅん」
ぱしゃり。
彼は己の内側に、精霊を完全に封じ込めた。
そうして、彼女と一緒に水底深く沈んでいった。
姿見に映っているのは、ソファと白い膨ら脛。
テーブルに残されたのは、三種の薔薇。数万とも言われる種類の中で、たった三種の薔薇の花束。
劇場には魔物が棲んでいる。
それは音も立てずに近づいて、人の心に忍び入り、甘美な罠をかけにくる。
あの扉の隙間から。
日差しが陰り、漸く涼気が頬を撫でる。
仲睦まじそうに絡む亜麻色の髪と金色の髪が、劇場正門の柱を横切った。
両腕から溢れ出た色とりどりの花束が、ちらちらと覗いている。
二人には感謝してもしきれない。とリーナは思う。
コンサートには直接関係のない問題が少々(?)起こり、他の演者から嫌味や揶揄を受けたりしたけれど、それを差し引いても想像以上の出来だったといって良いだろう。
──機会があれば、また出演してほしいくらいだわ。
そう思った直後、打ち消した。その前に、彼には強靭な自制力を養ってもらわなければ。本当に。
よくもまあ、臆面もなくあそこまで大胆に振る舞えるものだ。
──ユリウスも大変ね……。
不意に可笑しさが込み上げる。リーナは唇を噛んだ。
その時、彼に気がついた。
思わず、息を止めた。
ユスーポフ支配人が、建物の影に立ち竦んでいたのだ。
汗ばむ時季にも拘わらず(今日は特に暑かったはずだ)、相変わらず黒いスーツに身を固めている。
支配人は、じっと、一本の柱を凝視していた。そこは、たった今、友人二人が通り過ぎた場所だった。
そう言えば、彼はコンサートを観たのだろうか?
彼女の歌は、聴いたのだろうか……?
暫くすると、黒髪の経営者は、リーナに気づくことなく、その場から足早に立ち去った。
その拍子に、スーツの上着から、はらりと何かが舞い落ちる。リーナは気になって、その場所へ歩を進め下を見た。
白大理石の床に赤い花びら。染みのように、一片だけ。
そっと摘んで匂いを嗅ぐ。濃厚な果実の香りがした。
──これは、何の薔薇だったかしら……?
劇場という場所柄、多種多様な花束が届けられるため、いつの間にか花の名前にも詳しくなった。
──思い出した。《エディットピアフ》だ。
エディット・ピアフ……?
友人がアンコールで歌った曲の作詞家と同じ名前だった。
偶然だろうか……?
「リーナぁ、ちょっと来てぇっ」
「あ、はーい」
遠くからのスタッフの声に顔を上げ、赤い花弁をポケットに入れると、リーナは入口のドアを開けた。
そして、そのまま、そのことは忘れてしまった。
向かい風にのって、微かな洋梨の香りがした。
この季節、母国でもよく食べていた。芳醇な酒のような味が好きだった。
同じ香りの薔薇に惹かれたのは、そんな取るに足らない理由かもしれない。花屋の前で足を止めた自分にも驚いたが。
品種になど興味はなかったが、知った名前だったので、頭の隅には残っていた。
世界中で歌われる有名な曲の歌手。
──まさか、あの娘がアンコールで歌うとは……。
レオニードは、ふっ…と笑った。
稀有な偶然とは、こういうことを言うのだろうか。
──赤いドレスの椿姫。
あんな小さな躰の何処に、あのような力が隠れていたのか。僅か一週間の間に、何が彼女を変えたのか。
誰が……?
──あの男、か。
風と香りが強くなり、小さな足音が近づく。
「あ……」
あの時ドナウで聴いた周波数と同じ響きが耳に届いた。
「ああ……、君か」
平静を装う。私としたことが……。
「こ……んにちは」
怯えの色が表情に見える。無理もないか、とレオニードは思った。
金色の髪が風に靡いて、果実の匂いを運んでくる。
「その香りは……」
口にしてから後悔した。だが、それで彼女は少し安心したようだった。
「やっぱり分かります? 昨日のコンサートで、赤い薔薇の花束を貰ったんですけれど、香りが強くて服や髪についちゃったみたい」
「赤い、薔薇」
「それが、送り主が分からないんです。カードも何も入ってなくて……」
そんな、捨てられた子犬のような上目遣いで私を見るな。レオニードは、内心酷く狼狽えた。
「私に、分かるはずもない」
だが、表情には出さない。
「そう……ですよね。でも、ボクが貰っちゃって良かったのかなあ。もしかして、誰か他の人への間違いだったら……」
「君の控室にあったのなら、間違いはないだろう」
彼女の瞳が僅かに輝く。いつの間にか、怯えの色は消えていた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえて、ほっとしました。あっ、ごめんなさい、ボク、もう行かなくちゃ」
彼女は、ぺこりと大きく頭を下げて、そのまま走り去っていった。
まるで飼い主を見つけた子犬みたいに。
甘い香りを置き去りにして……。
その先には、ドナウにかかる橋がある。
そこで、あの男が待っているのだろう。
あの男が……。
──この私に、あそこまで言った人間は、今まで一人もいなかった。
残り香が消えるまで、レオニードは動けないでいた。
──あれ……? ボク、花束が控室に置いてあったこと、あの人に言ったっけ?
考えを巡らせる間もなく、目的地の階段が見えてきた。自然と笑みが零れ、足取りも軽くなる。
「まっ、いいかぁ」
ユリウスは足を速めた。その勢いのまま、階段の手摺りに手をかける。
『お前はぁ、何度言ったら分かるんだよっ!?』
彼の声を、青葉の薫りが運んでくる。
必ず言う。きっと言う。
言われる前から分かっている。
風が、変わった。
惜しかったなあ。
あと、三段だったのに……。
頭の上で、不機嫌な声がする。
お前は幾つだ? とか、学習という言葉を知っているか? とか。
そんなことを言うのなら、幾つになったら、この条件反射が無くなるのか教えてほしい。とユリウスは思う。
「ったく、金色のアヒルが落っこちてきたのかと思ったぜ」
「アヒルぅ?」
──天使じゃないの?
ユリウスは唇を尖らせて彼を睨む。
「ほれ、その口が、もうアヒルそのものだ」
慌てて口もとを隠した。
「この服も、何年ものだ?」
ユリウスが着ている白いワンピースのことを言っているのだ。
「物持ちが良いって褒めてよね。えーと、もうすぐ8年……かな?」
「そりゃすげえ! 一度池に浸かったとは思えないぜ」
「……まだ覚えてたんだ」
「あれは、俺とお前の三大事件の一つだからな」
「あとの二つは……?」
「それにしても、8年には見えないな」
クラウスは、レースの透けたフレンチスリーブを指で撫でる。
「だって……」
──大事に大事に着てるもの。
「俺との初めての夜も、これを着ていたよなあ?」
──二つのうちの一つは、これだ。
両腕に力を込め、耳もとで囁いた。
かあぁ……。
ほっぺたが熱くなる。
「もぉう……」
「何だって?」
わざとらしく耳を澄ませば、腕のなかで躰が暴れて、するりと下から抜け出した。
「あっ、こら!」
「べぇっ!」
そう言ってユリウスは舌を出した。それから、サンダルに片手をかける。
クラウスは、その手を止めた。不満げに見上げる瞳。
彼は彼女の手を取って、せせらぎの音の近くに腰を下ろした。
「お前、幾つになったっけ?」
クラウスは、せせらぎを見つめている。
「またその話? 23だよ。どうせ水遊びする年齢じゃないですよーだ」
「違いない」
クラウスは笑いだす。ユリウスはクラウスを睨みつけた。
不意に、彼が、笑うのをやめた。
「なあ、ユリウス」
「なあに?」
彼は彼女の肩を抱いた。
「あのさ……」
──残りの一つは……、
手の力が強くなる。少し痛い。
「だから、何……?」
「耳、かせ」
「えぇ?」
耳を寄せた。彼の唇に。擽ったくて笑いそうになる。
耳朶に吐息がかかった。
熱かった。
「俺たち、そろそろ……」
──最後の一つは……、
その時、また風が変わった。
金色の髪が後ろに靡いて、薔薇の香りは、遥か彼方へ飛んでいった。
「ユリウス?」
眩しいのは……、水に反射する陽射しのせいだ……。
涙が止まらないのは、さっきよりも強過ぎる風のせい、だ……。
「ユリウス……」
「遅いよ……ばか……」
・・・Willst du heiraten?・・・・・・
『乾杯の歌』
『Hymne a l'Amour(愛の讃歌)』
当時、作中の訳詞の参考にしたリンク先が削除されていました(気に入っていたのに残念)。代わりにこちらを貼り付けておきます。
読んで下さった皆さま、お疲れ様です。
長かった、でしょうか?
多分、アメブロで初めて10000文字超えたのではないかと。どうしても切りの良いところが見つからず、思い切って一気に上げてしまいました。
思い返せば、現代版のレオニードの心理描写、なかなか難しかったです(本作品以降、彼は登場していません)。いつか二人と再会して、(原作のように)「結婚したのか…」なんてちょっと落ち込む姿も書いてみたいと思うけど、思うだけで終わる気がする
ありがとうございました