眠れぬ夜の主人と従僕
その1『敏感な従僕』
「アンドレ、あとでわたしの部屋へ……」
視力を失った代わりに聴力が鍛えられた男は、主人の何気ない台詞の意味を瞬時に読み取る。
囁くような呟きと、短い言葉の端々に入り混じる乱れた吐息が憶測に拍車をかける。
突然、大理石の床に派手な音が鳴り響いた。
「も、申し訳ありません!」
床に散らばったカトラリーをアンドレは慌てて拾い上げる。
それぐらいでは動じぬ高貴な晩餐の席で、六女だけがひとり手首を震わせていた。
不謹慎な憶測が頭から離れない。
これまで、愛した女を抱いたことはなかった。
長い間、愛している女がいるというのに。手を伸ばせば、直ぐに我が手に抱けるというのに。
遠くから、ヴァイオリンの音色が聴こえてくる。曲名は忘れたが、モーツァルトだ。静かな曲だった。階段を上りながら、アンドレは何故だか安堵した。恐らく、今夜も昨日と同じ夜を過ごすのだろうと。それだけで十分なのだと。
けれども、部屋に足を踏み入れた瞬間、甘い旋律が彼を雁字搦めにする。
弾いているのは彼女の筈だ。弾き方の癖が同じだからだ。ひどく物悲しい。なのに、柔らかく艶やかだ。そう聴こえる。
アンドレは立ち尽くし、動けないでいた。
オスカルは曲の途中で演奏を止め、愛器をテーブルに置いた。
窓からの風と不規則な息遣いが交差する。
そうして──
絞り出すような彼女の決意を聴いた時、心臓どころか、全ての機能が一度止まった、と思った。
長い沈黙のなかで、精霊の風が惑わせる。人は憶測が現実になった時、素直には受け止め切れないものらしい。困惑と歓喜の狭間で揺れ動き、今更自明である異論を並べ立て。
終いには、それは自分へ向けられた言葉なのか、見えないだけで彼女の横に別の男が寄り添っているのではないか、と幻覚まで見えてきた。
しかし──
彼女は自分の名を口にした。アンドレ・グランディエの妻に──と。
それだけは、確かに、脳裡に刻み込まれた。
気がつくと、彼女を腕に抱いていた。彼女は抵抗しなかった。
良かった……。余計な杞憂だったのだ。
アンドレは、部屋の窓を閉めた。
その2『鈍感な従僕』
「アンドレ、あとでわたしの部屋へ……」
給仕の最中に、主人からの命を文字通り受け取った男は、数時間後、廊下を歩いている途中ではたと気づいた。
「アンドレ、どうしたの?」
オスカル付きの侍女サラの声だった。
「いや……、オスカルに部屋に来いと言われたんだが」
おい。しれっと喋るんじゃない。
「ワインなのかショコラなのか訊くのを忘れた」
「オスカルさまは何も仰らなかったの?」
「言われなかった、と思う」
侍女の瞳が鋭く光る。
つい先刻まで、サラはオスカルの湯浴みの世話をしていた。普段は自分の躰に無頓着で任せっきりのオスカルが、珍しく念入りに慣れない手つきで肌を擦っていたことを思い出す。
そういえば──
『サラ』
オスカルは自身の胸もとをじっと見つめ、
『何でございましょう? オスカルさま』
『その……、わたしの……』
それから、サラの胸にじっと見入り(因みに彼女の胸は豊満の部類に入る)、
『はい?』
まじまじと交互を見比べ、
『わたしの胸は……小さい方、か?』
ジャルジェ家に仕えてウン十年のベテラン侍女も、濡れた床で引っ繰り返りそうになった。
『お、お胸、で……ございますか?』
自然と、サラの目線は桃色に火照った果実に移動する。
『いや! 今言ったことは忘れてくれ!』
──真っ赤になって胸を覆い隠されたオスカルさまの可愛らしかったこと。
『大丈夫でございます。自信をお持ち下さいませ』
よもや彼女の口から、そのような類いの質問を投げかけられる日が来るなんて──とサラは嬉しさの余り声高に褒め称えた。
程良い大きさ(これが大事)。形の良さ(これも重要)。その艶となめらかさ(以下同文)。吸いつくような柔らかさ(右に同じ)。まだまだ言い足りないとばかりに先を続けようとした矢先に、
『もう、良い……十分だ』
両手で口を塞がれた。白い、美しい手だった。
「サラ、どうした?」
我に返った侍女は、思わず長身の男を見上げる。この上なく鈍感で、馬鹿正直な従僕を。
「何も仰らなかったのなら、どちらもご所望じゃないのよ」
──ご所望なのはあんたよ、アンドレ。
「ほら、早く行っておあげなさいな」
──湯冷めしちゃうじゃないの。
「わ、分かった。ありがとう」
アンドレが階段を上っていくのを見届けると、独り言のようにサラは呟く。
「温めてあげてね……」
それから、ゆっくりと踵を返した。
「怖く、ないから……」
滾りを抑えた低音の声。彼女は漸く、広い胸に躰を委ねる。心はとうに彼のものだ。
アンドレは軽い躰を抱き上げて、寝室へ運んでいく。皺ひとつないシーツの海に、金色の髪が波を打つ。
舵のない舟に投げ出されたようだった。オスカルはアンドレを見つめ、息を吸い込む。アンドレは彼女の頬に手を触れる。微かに震えているのが分かった。その震えを宥めるように口づける。どんな時も、彼女を落ち着かせることができるのは彼の唇だけだった。
オスカルは目を閉じる。
アンドレは、ブラウスのリボンをしゅるりと解いた。
刹那、白薔薇の馨りが立ちのぼり、棘のない蔓が彼に絡みつく。誰も寄せつけぬ強固な鎧の内側に、こんな匂いを秘めていたなんて……。
それをあまねく吸い取るように、口づけを繰り返す。息継ぎをするかのごとく彼女は彼の名を呼んだ。懸命に応えようとする仕草が愛おしかった。
静かな夜。
窓は閉まっている。
腕の中には、雪を欺くほどに白い肌。
耳に届くのは、精霊の歌声だけ。
耳を研ぎ澄ませながら、手のひらがカーヴを辿る。しっとりと吸いつく肌へ、余すところなく唇を滑らせる。
両の手が白い胸もとを包み込み──この世のものとは思えない柔らかさを堪能し──親指が突起を掠る。
「あ……っ」
淡い艶声に導かれ、唇があとに続いた。官能を探りながら蕾を啄む。貪欲に、執拗に。
「……っ、待っ……」
「ごめん、痛かった?」
オスカルはふるふると首を振る。
「そんなふうに……されては……」
「嫌?」
「い、やでは、ない……が」
「大丈夫。慣らしているだけだよ、少しずつ……」
桃色を帯びた果実は先刻よりも柔らかくなっている。蕾は紅色に膨らんで今にも綻びそうだった。だけどまだ十分ではない。
彼は手のひらで優しく果実をほぐし、蕾を舌先で弄ぶ。
彼女は助けを求めるように広い背中にしがみつく。指先が震えている。甘い短い息が宙に舞う。
想像していたよりも敏感な彼女の反応にアンドレは悦びで戦慄し、言葉にならない抵抗をやり過ごし──しっとりと湿り始めた真白な肌に、一片、一片、朱い刻印をつけていく。
彼女の唇を拘束したまま、右手が下肢へ下りていき、内腿の合わせ目へ。未だ穢されたことのない深淵へ到達する。そこからは清泉が滲みだし、誘惑の香りを放っている。
生まれて初めて経験する自分の躰の変容に、オスカルは狼狽していた。
「っあ……」
あえかな喘ぎ。拒絶とも受容ともとれる声。
「アンドレ……や、め……」
指ではない軟らかなものが下腹部を這いずっている。
水音。
それが何だか分からない。知るのが怖い。
水音。
違う。本当は分かっているのだ。気づかない振りをしているだけだ。
「怖い?」
オスカルは首を振った。
髪の動きと空気の揺れで、アンドレは答えを察知する。
怖いと言われたら、直ぐにやめるつもりだった。決して無理強いはしたくなかった。
一方で、オスカルは、何処まで許容して良いのか分からなくなっていた。正解を知らないからだ。
今や、頭の先から足の先まで、全身が彼の手の内にあった。彼に翻弄されていた。
アンドレは滔々と溢れる泉を指で掬う。
「怖くない。お前と、ひとつに、なれるなら……」
──お前の妻になれるなら……。
彼女は与える。わたしは骨の髄までお前のものだ、と。
夜のほどろ、二人は魂を交わし合う。
清冽な契り。
風は止んでいる。
胸に抱くのは、なよびかな花の馨り。噎せ返るほどの。
耳に届くのは、雨音の旋律。
言葉は要らない。
「アンドレ」
こんな時に愚かな質問かもしれないが、
「お前の夢は、何だ?」
明日のことも見えぬのに、お前は笑うかもしれないが、と彼女は言った。
「夢?」
沈黙の後、
「いつか……別の世界で出逢えたら、俺から求婚したい。それが夢だ」
お前は笑うかもしれないが、とアンドレは微笑む。
「わたし……に?」
「お前以外に誰がいる」
彼は微笑み、もう一度、彼女の裸身を抱き寄せた。
ただ純粋にお前が欲しいと──お前と永遠を誓いたいと。
そんなことさえ叶わないのだ。そんなことすら許されないのだ。
お前が俺を見つめている。その瞳から涙が伝う。
見えないけれど、見える気がした。
翌々日──
白い鳩が二羽、大空に向かって飛んでいくのを、貴賤貧富に拘わらず、何人もの人間が目撃した。
付かず離れず、寄り添うように。
澄み渡るパリの空に、何処までも高く、高く──。
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「アンドレ、あとでわたしの部屋へ……」
天上の庭で、彼女は言った。
「初めから同じ部屋だよ」
優しい声で、彼は答えた。
※オスカルさまが弾いていたモーツァルトの曲はこちらをイメージしました🎻
『ヴァイオリン・ソナタ 第21番 ホ短調 K.304 第2楽章(終楽章)』