え、いつ卒業してたんだ?
壮大なるすっ飛ばし。
そして、あの方の唐突な初登場。細かい点はどうか大目に見て下さいませ。

前話まで19歳だったユリウス23歳になりました(オイ)。
クラウス25歳
レオニード29歳(原作初登場時、23歳説に則る)

 

その前話傘

 

 

 

※ミュシャ「サラ・ベルナールの椿姫」

 

 

プロローグ

 

過去に、一度だけ、ピンチヒッターを頼まれたことがある。

 

聖ゼバスチアンのクリームヒルト。退学後だったにも拘わらずだ。それはもう一言では語り尽くせないほどの大顛末だった(あの日のことを思い返す度に、ユリウスは今でも穴を掘って埋まりたくなる)。

今回の依頼を引き受ければ、これで二度目ということだ。
否、そんな軽い言葉では片づけられない。何故ならば、今度の舞台は、一介の学生がお祭り騒ぎの一環として披露した音楽劇とは雲泥の差があるからだ。

 

 

帰省の計画を立てる少し前、ユリウスのもとに一本の電話がかかってきた。相手は懐かしいレーゲン学院の友人だった。
学院時代からの友人リーナは、現在、レーゲンスブルク劇場のスタッフとして働いている。
久しぶりの挨拶をひとしきり交わした後、友人は、七月に開催されるサマーコンサートを聴きにこないか、とユリウスを誘ってきた。

 

「コンサート?」
「それは口実。ねえユリウス。私たち、もう一年近く会ってないのよ」
少し拗ねたような友人の声が電話の向こうから伝わってくる。
「え? そんなに経ったっけ?」
「ほらほら、これよ。所詮女の友情なんて……よねえ」

受話器から大きな溜息が聴こえてきたので、ユリウスは慌てた。

「そ、そんなことないよ! ボクだって、ずっと会いたいなあって思っていたんだよ」
「本当かしら? 単に、ダーリンのそばを離れたくないだけじゃないの?」
「違うってば! なかなか一緒に帰れるタイミングが合わなくて、それで……」
「あのねえ、貴女一人で帰ってくるという選択肢は無いのかしら?」

「だって……、クラウスが、それは絶対に駄目だって……」
「はあぁ……、成る程。相変わらずのようねぇ、貴女の彼も」


呆れたように溜息をつくと、リーナはコンサートの話題に戻った。

演目に、『椿姫・乾杯の歌』のヴァイオリンとソプラノのソロが入っている、と聞いた時、ユリウスは「絶対に行く!」と電話口で叫んでいた。オペラの中でも、ユリウスは、『椿姫』が大好きだったのだ。
電話を切った後、彼女は弾んだ気持ちとともに、そのメロディを口ずさんだ。

 

その時は、よもや観客と演者の立場が逆転することになるとは思ってもみなかった……。

 

 

 

 

レーゲンスブルクに着いた翌日、友人に会うために、うきうきとした足取りで劇場に向かったユリウスは、驚愕と困惑で眩暈がしそうになった。

「冗談……だよね?」
「いいえ、大真面目よ」
「なっ……、そんな大役、ボクには無理だってば!」
「大丈夫。ワンステージだけなのよ」
友人が人差し指を立てて見せる。

 

「あの、そういう問題じゃないの。そもそも、ボクは声楽家じゃないんだよ」
「クラウスから聞いたわよ。聖歌隊のディスカントの経験があるらしいじゃない」
「そんな大昔の話! クラウスったらもう……。あのね、ボクはリーナに会いたくて、予定を早めて帰ってきたんだよ」

「それはとても嬉しいわ。私も貴女に会いたくて堪らなかったもの。私のために帰郷を早めてくれて、本当にありがとう」
リーナは殊更大袈裟に、優しい口調で言葉を返した。
「ボクも、リーナに会えて本当に嬉しい。違う違う、だから、ボクは観客として来たの。そんな話、聞いてないからッ」

 

「私だって聞いてないわよ。まさか本番一週間前になって、ヴァイオリンとソプラノが駆け落ちするなんて! あの二人、数日前から練習に身が入ってないとは思っていたけど。はぁぁ……、お願い! ユリウス。もう、レーゲンスブルク劇場史上最大の大ピンチなのよう」
リーナはユリウスに擦り寄って、顔の前で両手を合わせる。
「だからね……、ボクなんかに頼むより、ちゃんとしたプロが他にいるでしょう?」

 

「勿論、片っ端から当たったわよ。演奏者名簿片手にね。だけどね、ヴァイオリニストとソプラノ歌手の両方でしょう? それにほら、相性もあるじゃない? 音楽性の違い云々とか? 結構面倒臭いのよね。急を要するんだから臨機応変に応えてくれれば良いのに、プロなんだからさぁ」
よっぽど苦労したのだろう。なんだか言葉の端々にやさぐれ感が窺える。

 

「だからボク? 学校の聖歌隊で歌っただけの、素人の?」
──意外としぶといわね。以前なら簡単に折れたのに。コンセルヴァトワールの四年間で、揉まれて鍛えられたのかしら?
仕方がない。
「クラウスは、承諾してくれたわよ」
リーナは最終手段に出た。
「え!? 何それ? いつ?」
予想通り、ユリウスの目が見開いた。

 

「昨夜、一足先にホテルへ電話させてもらったわ(将を射んとせば先ず馬を射よ、よ)」
リーナは軽く腕を組んで微笑んだ。
「いつの間に……。それ本当なの? リーナ」
「嘘偽りのない真実よ。だからもし貴女がNeinなら、彼の相手は他のひとに頼むことになるわねえ。知っているでしょう? この世界でのクラウス・ゾンマーシュミットの人気ぶりを。ドイツ中からソプラノ歌手が飛んでくるかもね」

 

目の前の友人の表情がみるみる変わっていくのを見て、落ちた……とリーナは確信した。
(人並み外れて)嫉妬深い男の影に隠れているが、彼女も見かけによらず恋人への独占欲が強いということを知っているからだ。

 

「さあ! とにかく先ずは声を出してみて。舞台はこっちよ」
「リーナぁ」
抵抗虚しく、ユリウスは舞台へ引き摺られていった。あれほど楽しみにしていた友人との再会を、ユリウスは心の底から後悔した。

 

レーゲンスブルク劇場の舞台は、花束贈呈のために上がったオペラハウスに比べれば、荘厳さでは劣るものの、広さはほぼ同じだった。上から客席をぐるりと見回した途端、両足に震えがくる。
今からこんな状態で、本番で歌えるわけがない。これで観客が入ったら……。ユリウスは眩暈がしてきた。

 

「む、無理……」
後退りするユリウスの手首を、逃がすものかとリーナは捕らえる。
「往生際が悪いわよ、ユリウス。まだ歌ってもいないじゃない。もっと気持ちを楽に持って。貴女だってこれからたくさんの舞台に出演するでしょう? その予行演習だと思えばいいわ」
「勝手に結びつけないでよ! ピアノと歌は全然違うの!」

 

そう、ピアノならまだ良いのだ。なのに、なぜ歌なのか。それも独唱。しかも一週間後。聖歌隊の時だって本番まで二ヶ月はあったのに。よりによって、よりによって、よりによって……。
──そうだよ。ボクが伴奏するから、クラウスが歌えばいいんだよ。もう、もう、もぉう……。

 

持って行き場のない感情の行く先が、最も心を許せる相手に向かうのは、至極当然の流れだろう。
そんな彼女の胸の内も何処吹く風で、しっかり仕事モードに戻ったリーナは、鍵盤蓋を開けながら椅子に座った。

 

ポロン……。
「はい、アー」
「アー……」
──しまった! つられちゃった……。

友人がにっこりと微笑んだ。
「良い? いくわよ」
そう言うと同時に、リーナが前奏を弾き始める。
ああ……、この友人には逆らえない。そう、昔からそうだったではないか。仕方なく、ユリウスは譜面を手に取った。

 

 

 

 

出だしは震えていた歌声も、みるみる声量が上がり始め、終盤には広い劇場内の天井に澄んだソプラノが反響した。
リーナの口から、ほうっ……という息が漏れる。

「はぁ……、私の想像を超えてきたわね、ユリウス。とても初見とは思えない。貴女、歌でも十分やっていけるんじゃない?」
「冗談言わないで。何度も、つっかえそうになったし、最後のビブラートなんて掠れて聴けたものじゃなかったじゃない。やっぱりボクには荷が重すぎる……」
「もう、そんなすぐに決めつけないで。まだ一度しか歌ってないのよ。一週間みっちり練習すれば、十分間に合うわ。何と言っても、伴奏者が心も躰もぴったりの最愛の人なんだもの、ね?」
「り、リーナ……?」

 

「深い意味はないわよ」
たちまち真っ赤になる初心うぶな友人を尻目に、リーナは素知らぬ素振りで先を続ける。
「こんな最強のペアは、何処を捜してもいやしないわ。彼となら成功間違いなし! ゼバスの学内演奏会で聴いた貴女と彼のスプリング・ソナタ、今でも忘れられないもの。愛の力って偉大よねえ」
過去の話まで持ち出して、リーナは力いっぱい称賛した。反対にユリウスは、褒められれば褒められるほど躰が縮こまっていく。

 

突然、パンパンパンパン……という手を叩く音に、誰もいないと思っていたユリウスとリーナは驚いて、音のした方向へ顔を向けた。
舞台袖に、黒髪短髪で、眼光鋭い顔つきの男が立っていた。
「ユスーポフ支配人」
瞬間、リーナは姿勢良く椅子から立ち上がった。
そう呼ばれた人物が、二人に向かって、大きな歩幅で歩み寄ってくる。

──ユスーポフ……?
支配人と呼ばれた人物が纏う一種独特の雰囲気に気圧されたユリウスは、思わず一歩後退った。
「君が、代わりの椿姫か?」
抑揚のない声が問いかける。

 

「あ、あの……ボクは……」
「はい、支配人。私の音楽学校時代の友人なんです。彼女に任せれば、もう『椿姫』は問題ありませんわ。当日は、大船に乗ったつもりでいらしてください」
「リーナ! いい加減なこと言わないでよ」
ユリウスは、小声で友人に抗議する。

 

「ヴァイオリンの方はどうなった?」
支配人が表情を変えずにリーナを見た。
「そちらも確約済みです。間もなくこちらに見える予定です」
澱みなく、リーナが答える。
「えっ? クラウスも来るの?」
ユリウスは驚く。
「そうよ。2時の約束。一分一秒でも惜しいから、なるべく早く此処の雰囲気に慣れてもらおうと思って」
客席の壁に掛かった丸い年代物の時計を見る。1時50分、10分前である。
「何とかなりそうだな。後は任せるから、本番まで宜しく頼む」
「承知いたしました」

 

黒髪の経営者は、初めに現れた方角へは戻らずに、舞台から客席に下りる階段へ歩を進めた。まるで表情のない人形のように。
革靴の音が、カツカツと床に響く。
階段を下りたところで、支配人は、顔だけをこちらに向けた。
「ああ、君」
視線は、真っ直ぐにユリウスに向いていた。
冷眼の奥に光る慧眼に、思考のすべてを見透かされているようで、ユリウスの胸に不安と畏怖が入り混じる。
「……はい」

 

「本番までには、もう少し、妖艶な椿姫になっていることを願いたいものだな」
最初、ユリウスは、彼の言っている意味が解らなかった。
「は、い?」
「その玲瓏れいろうたる声は、当日、このホールの隅々まで響き渡るだろう。だが、今のままでは、高級娼婦ではなく可憐な少女だ。もっと言えば、幼い天使だな」

 

「ボクは……、少女ではありませんけど……」
よく分からないけれど、馬鹿にされているような気がする。
隠喩いんゆだよ。まあ、とても一週間では足りないだろうが、せいぜい精進して、くれぐれも観客に笑われるのだけは勘弁してもらいたい」

無表情だと思われた彼の左の口角が僅かに上がる。しかし、それも一瞬だった。
ユスーポフ支配人は、ロボットのように顔を元の位置に戻すと、正面の入口だけを目指して歩く。そして目的通りドアを開けた。

 

 

 

 

「やばっ……、少し遅れたか」
腕時計を見て、クラウスは小走りになった。

 

約束の時間の2分過ぎに劇場へ到着すると、恰幅の良い黒いスーツの男が、入口から出てくるのが目に入った。
立派な体躯を揺らすことなく、クラウスの方へ一直線に向かってくる。その無駄のない動作は、一人であるのに、まるで何処かの国の隊列のようだった。

 

二人の身長が大差ないことは、ちょうど擦れ違う時に見て取れた。一点を見据え、微動だにしない男の顔へ、クラウスは視線を走らせる。
ドアを開けた途端、この世界の何よりも愛して止まない、今朝、その柔肌から躰を剥がす直前まで自分の耳を擽った天使のソプラノが……。

 

「──それに何なの、あのひと? 文句があるなら不採用にすればいいじゃない。それをあんな回りくどい嫌味な言い方で、いくら鈍感なボクだってね」
「まあまあ……、落ち着いてユリウス(鈍感なのは自覚しているのね)。彼は、いつもそうなのよ。ああいう言い方しかできない人なの」

 

場所が場所なだけに、天井まできんきん響く高い声をリーナが必死に宥めている。
──なんか、まずいところに来ちまったかな……。
クラウスがそう思った矢先、金色の髪が振り向いた。

 

「クラウス!」
「よう……、どうしたユリウス? 目が吊り上がってるぞ」

自分を見つめる、もとい、睨みつける容赦ないの碧の瞳に、クラウスは思わず逃げ腰になったが、帰るわけにもいかないので前進し、舞台への階段を上がり始めた。

 

「よくもボクを騙したね……」
じりじりと小さな躰が迫ってくる。どうやら、リーナの画策のことを言っているようだ。
「だ、騙したって……お前、人聞きが悪いなあ。黙っていたことを怒ってるのか?」
クラウスは、ヴァイオリンケースを盾にして、それでも一歩ずつ近づいていく(ちっとも怖くないからだ)。

 

「クラウスが、ほいほいと安請け合いしたせいで、ボクがどんなに迷惑しているか知らないでしょ!」
「えらい剣幕だな。友達の窮地なんだから、俺たちに出来るなら助けてあげたいだろう? それとも、お前は違うのか?」
ピアノの上にヴァイオリンケースを置いてから、クラウスはユリウスの顔に目線を合わせる。
「そ、そうだけど……」
ユリウスは口を尖らせてそっぽを向いた。
「でも、ボクの歌なんかじゃ何の助けにもならないもん」
彼女にしては珍しく、意固地で自虐的な態度である。
「何か、あったのか?」
「ちょっとねぇ、うちの支配人が……」
「支配人……? さっき、入り口のところで擦れ違ったやつかな? ガタイのいい兵隊みたいな」

 

リーナが吹きだす。
「上手いわね、クラウス。彼、経営者としては非の打ち所がないんだけど、その完璧さ故に人に対して少々辛辣というか……」
「全然、少々じゃないっ!」
しゃーっと逆立つ雌猫の背中を撫で、「よしよし」と髪をくしゃくしゃする。幾つになってもこれが効くのだ。
「経営者にしては若くないか?」
途端にしゅんとなるユリウスの肩を抱きながら、クラウスはリーナに訊いた。

 

「そうねえ。確か、まだ30前じゃなかったかしら。本国で、お父様が劇場を二つ経営されているのだけれど、ここを買った時に長男であるあの人に任せたらしいの」
「本国? ドイツ人じゃないのか」
「ロシア人よ」
「あ、だから名前が……」
ユリウスが口を挟む。薄紙一枚ほど立ち直ったようだ。

 

「そう、レオニード・ユスーポフ。別名『氷の刃』」
「氷の刃?」
クラウスが片眉を僅かに上げる。

 

「とにかく容赦がないのよ。スタッフだけじゃなく演者に対してもね。お父様の仕事柄、子供の頃から劇場に出入りしていたみたいで、音楽家でもないのに耳だけは肥えているのよね。だから、相手がプロだろうがお構いなしにグサッと──」
リーナは、人差し指を自分の胸に突き刺した。

 

「……で、お前も何か言われたのか?」
クラウスが恋人の顔を見る。

ぎっくん……!


「幼稚……」

ユリウスは唇を嚙み締める。
「へ?」
「ボクの歌は妖艶じゃない。幼稚だって言われたの」
「よう、ち……?」
幼稚ってどういうことだ? とクラウスは首を捻る。
「ちょっとユリウス? 表現が捻じ曲がっているわよ」

リーナが言った。
「これ以上ないほど、率直に受け止めています」

それきり、ユリウスが横を向いて黙り込んでしまったので、リーナが補足してクラウスに説明する。

 

「まあ……、取り敢えず、俺と一度、合わせてみようぜ。な?」
柔らかな髪をぽんぽん撫でて、クラウスはユリウスを促した。
小さく溜息をついた後、再び楽譜を手にした友人を見て、鮮やかな魔法のような操縦法に、リーナは感心しきりだった。

 

 

 

 

耳馴染みの良いヴァイオリンの音色が、気持ちと声を少しずつ浮き上がらせる。ユリウスは二度目のアリアを最後まで歌い切った。
ところが、友人の表情は先程よりも硬かった。

 

「こんなこと言ったら悪いけど……、最初の方が私は好きだわ。でも、声の伸びは格段に良くなったわよ」
「だけど、今度は一度もつっかえなかったでしょう? ビブラートはまだまだ不安定だけど……」
友人の感想に困惑するユリウスの横で、クラウスは何かを考え込んでいる。舞台上を沈黙が支配した。

 

「クラウスは、どう思った?」
伴奏者にリーナが問う。
「お前さ、声を作っているだろ?」
クラウスはユリウスに正対し、真面目な顔で言った。
「え……?」
「今の歌は、俺の知ってる天使のソプラノじゃない」
「どういうこと? それ」
ユリウスは目を細める。
「あの支配人に言われたこと、気にしてんのか?」
「だって、天使じゃ駄目なんだよ。『椿姫』は……」
何処か自信なげな声だった。
「《高級娼婦》だからか?」
「そりゃあ、ボクにはそんな経験はないから、真実味には欠けるかもしれないけど……」

 

「おい、冗談じゃないぞ」
クラウスの片眉が吊り上がる。
「それじゃお前は、ヴィオレッタを演じている世界中の声楽家全員が《高級娼婦》の体験入学でもしていると言いたいのか?」
「ちょっとクラウス! 極論に走り過ぎよ。それに問題がすり替わっているわ」
リーナは慌てて二人の間に割って入る。
「そんなこと言ってない! そんな体験は無理だから、せめて少しでも想像力を働かせて……」
「俺はな──」
ユリウスの言葉に被せるように、クラウスは大きな声を上げた。
「娼婦になったお前の姿を、お前自身が想像するだけで嫌なんだ!」

 

「え?」とユリウス。
「相手の男は誰だ?」
──え……?(リーナ)

「イザークか? それともダーヴィトか?」


「え? ……え??」とユリウス。
「それとも、レーゲンにいたハリーか? フランツか?」(うわぁ久々)
──ええぇ……??(リーナ)

 

開いた口が塞がらないとはこういうことだ、とリーナは思う。
それよりも何よりも、この男の恋人に対する独占欲は、自分の想像を遥かに上回るものだった──と考えを改めさせられた。

 

「あの……クラウス……、知っている人の顔なんて想像するわけないじゃない。恥ずかしい……」
グランドピアノの側板に背中を押しつけられ、ほぼ真上から睨まれたユリウスは、やっとの思いで答えを返す。喜んでいいのか、それとも怒るべきなのか、脳内がぐるぐる回っている。
戸惑いがちに潤む碧い瞳を目の当たりにして、男は漸く頭が冷えた。深く深呼吸して、もう一度初めから仕切り直す。

 

「あのさユリウス、『椿姫』は純愛の物語でもあるんだぞ」
「……分かってる」
「そもそも、初対面のやつの言葉を真に受け過ぎじゃないのか?」
そう、そのことも苛立ちの起因の一つだった。
「分かってるってば……」
消え入りそうに呟いた後、ユリウスは下を向いて黙り込む。クラウスはストラドを片付け始めた。

 

「悪いけど、今日は帰るよ。行くぞ、ユリウス」
「え? 何言ってるの? 時間が無いんだよ、クラウス」
「このまま続けても時間の無駄だ。よく分からんが、ここには何か、嫌ぁな空気が漂っている」
「良いわ。私も同意見よ。二人とも今日は帰って」
澄ました顔でリーナが言った。

「リーナ? ほんとに良いの?」
「ユリウス、また明日ね」
リーナは謎の笑みを浮かべて、ひらひらと手を振った。
それから、クラウスは、ヴァイオリンケースと不満たらたらのソプラノ歌手を抱え、劇場を後にした。

 

 

 

 

「ねえクラウス、分かってる? 貴方はいいかもしれないけど、ボクはもっと練習しないと間に合わなくなっちゃうの。本番まで一週間しかないんだよ」
「あそこでなくても練習はできるだろ」
「何処で? まさかゼバス? 卒業してから何年経ってると思ってるの?」
「そうだな。例えば、ほら、ここだ」

 

知らず知らず、二人はドナウの橋に来ていた。懐かしいせせらぎに、ユリウスは思わず歩を止める。
クラウスは彼女の手を取り、強く握った。それは階段を下りる前の暗黙の儀式のようなものだった。

 

「もう……、いったいボクを幾つだと思っているの?」
「お前が幾つになっても、俺にとって、お前は《ゼバスの金髪の天使》のままだからな」
「なんだか、いつまでも成長してないみたい」
今日は素直に受け取れない。
「だから、声が幼いなんて言われるのかな……」
「ばーか。気にすんなって言っただろ」
「そんなの……」
無理だ、とユリウスは思う。
気にするなと言われれば言われるほど、人はその言葉に囚われてしまうものだ。

 

──いつまでも無垢な天使でなんかいられないんだから。

 

「何か言ったか?」
「何でもなぁい」

クラウスが一足先に地面に下りる。
その直後、繋いだ手をぎゅっと握って、二段上からユリウスが飛び下りた。スカートがひらりと翻る。

 

「おいっ、危ねえなあ」
「大丈夫。いざとなったら、貴方が抱き止めてくれるもん」
「だからってなぁ」
「わあっ、ここも久し振りだね」
ユリウスは手を離して走りだす。
「こらぁ待て! いきなり走るなっ! ばか!」

 

──まぁた言ってる……。ふふっ。
「過ー保ー護ーーっ」
歌うように、ユリウスが叫んだ。

 

「何だとう!?」
クラウスは慌てて後を追いかける。
──そういうところが子供なんだよ、まったく……。

 

♪Tra voi saprò dividere il tempo mio giocondo;
Tutto è follia nel mondo ciò che non è piacer.♪《『椿姫・乾杯の歌』抜粋》

 

「……あ」
ユリウスが、両手で口を押さえて立ち止まる。
クラウスも続けて足を止めた。
ユリウスがゆっくりと振り返ると、その場で、クラウスがヴァイオリンを構えていた。
それから、彼女に断りもなく、『乾杯の歌』を弾き始めた。
「クラウス……?」
「いいから歌え。今の通りにだぞ」

 

ストラディヴァリの音色にのった歌声が、ドナウの空と川と草地と、あまねく空気を採り込んで浮遊し、拡散し、それが何度か繰り返された。

やがて、清澄な水底に最後のアリアが吸い込まれる。


放心状態の歌姫エウリディケ楽神オルフェウス
ふと彼は我に返り、彼女に歩み寄り、細い躰を抱き寄せてキスをした。

 

口づけを深めていくごとに、青年は背を屈め、膝を折り、姫女菀ヒメジョオンが生い茂る草地に膝をつく。
ユリウスも膝をついた。

 

がっしりと逞しい男の腕に抱かれながら、今にも蕩けてしまいそうな熱い熱いキスの雨。
時間が止まる。
そして……それは二人にとって、永遠と同義になった。

 

 

 

 

※文中『隠喩』の意味/「オル窓」関係者若しくはファンが書いたのか? と妄想させる解説を是非ご覧ください爆  笑

 

 

 

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