「二時間で脱がされるのに着てしまうワンピースかな電車が青い」 岡崎裕美子
イメージしたのは、こちらの短歌。

 

 

 

出掛けは天気が良かったのに……。

 

ぽつり、ぽつりと石畳に点を打っていた水滴が、あっという間にまだらになった。
初めは、樹の下でしのぐつもりでいたユリウスは、慌ててカフェの屋根オーニングに避難する。
布製の屋根に、バラバラと強めの音が響いた。

 

「危なかったぁ……」

ユリウスは、ワンピースを両手で撫でる。早めの判断が功を奏し、裾が少し濡れるだけで済んだ。白いワンピースは濡れると透ける。ユリウスは、過去の恥ずかしい体験を思い出して赤面した。

 

待ち合わせ時刻は三時。カフェの壁掛け時計をちらりと覗く。
──あと五分か。
中に入っていようかと一瞬考えたが、彼が見つけられなかったら困る。
そういえば、今まで擦れ違わなかったことが不思議なくらいだ。
学校帰りにドナウで待ち合わせをした時は、クラウスが先に来ていたことの方が多かった。

 

「いつも早いね」と言うと、「お前が階段から転げ落ちた時、助けるやつがいないと困るだろ?」と返されて、膨れたこともあったっけ。

事実、あの逞しい腕で抱き止められたことは、一度では済まなかったのだから、文句は言えないのだけれど……。


そんな時、決まって彼は暫くの間、ユリウスを抱き締めたまま離さない。

「は、離してよ」と懇願しても、聞く耳を持たず、
「まったく……何度言ったら分かるんだろうな、お前は。これは罰だ」
と真顔で咎められ、もっと強く抱き締められる。

胸も腰もぴったりと彼の躰に押し当てられ、こっちは鼓動が逸るばかりなのに、涼しげな態度が憎らしかった。その癖、吐息だけは、耳朶を溶かしてしまうほど熱くて……。

 

本当に熱くなってきた。
「や、やだ……、こんなところで……」

一人でいると、つい独り言が増えてしまう。ユリウスは所在なさげに辺りを見回す。思いのほか雨足は強く、殆どの客は室内の席に座っていた。
空はどんよりと分厚い雲に覆われている。この分だと暫くは止みそうにない。

 

雨の日のデートは、どうしていたっけ……。

 

今日みたいな時は、二人で橋の下に避難した。
「雨が止むまでな……」
そう言って、橋脚に躰を押しつけられて口づけされた。だけど、そんな都合の良い天気があるわけなくて……。


五分や十分では雨は止まず──、やめてくれなかった……。

逃れようとすればするほど拘束は強くなり、押し退けようとした手は摑み取られ、全ての背骨を探し当てるかのように、手のひらと五本の指が制服の上を蠢いた。

雨音を掻き消すほどのキスの雨。
唇が離れた刹那、まだ足りないというように自分を見つめる切なげな鳶色の瞳。

 

……また顔が火照ってきた。
「もう……」
ユリウスは両頬を手で押さえる。

さっきよりも雨が強くなった。気がつくと、石畳に跳ね返った雨が足元を濡らしている。

「どうりで冷たいと思った。ハンカチ、あったかな?」
ユリウスはバッグを探り、小さな花模様のレースを四方に巻いたハンカチを取り出した。縁にはさくらんぼモチーフが刺繍されている。

 

以前、クラウスから、プレゼントされたものだった。
『お前は、さくらんぼみたいだからな』
笑いながら渡されて、理由わけも分からず受け取った。その時は、ただ嬉しくて……。

 

──さくらんぼみたいって、どういう意味だろう……。

 

思い返す度に、謎が増す。回収されなかった伏線みたいに。
次に逢った時に訊いてみよう。そう思うのに、彼の顔を見た途端、どうでも良くなってしまう。

ボクの知らないことを、クラウスはたくさん知っている。二年余計に生きている分だけ。
違う……、自分が不知だっただけだ。育った環境が特異すぎて……。

 

『お前は知らなくていい』
『そんなことを知る必要はない』

 

初めは、意地悪をされているようで不満だったけれど……。
今なら解る。そうやって、いつも護ってくれてたんだ。

十五年は長い。
想像していたよりもずっと……。
女の子の精神こころを置き去りにして、歪んだ処世術ばかり身についた未成熟な自分。

 

──今でもまだ、ボクは危なっかしいのかな……?

 

十五年は長い、と思っていた。ずっと……。
それなのに、まるで空の上の出来事のように、今は霞んだ雲の向こうだ。

クラウスが、ボクの心に、少しずつ清冽な水を注ぎ込む。
ボクの濁った年月は、いつか時空へ飲まれるだろう……。

 

 

 

 

「ユリウス?」
不意に呼ばれて顔を上げた。二人の友人が相合い傘で立っていた。
「こんな所で、雨宿り?」

「ううん、待ち合わせ。クラウスと」
黒い瞳の友人が、ユリウスの足元に目をやった。

 

「店の中で待てばいいのに」
「うん……でも、もうすぐ来ると思うから」
「何時に待ち合わせているの?」
「三時だけど」
「はあ? もう四時過ぎだぞ」
「えっ、もうそんな時間? おかしいなぁ……」
周囲を見回したが、彼の姿は見当たらない。

 

「時間合ってる? 場所は、此処で間違いないのか?」
もう一人の友人は、せっかちなようだった。

「うん。きっと用事が長引いているんだよ」
「よく待っていられるなぁ」
「でも、クラウスが遅れるなんて珍しいんだよ。まだ時間が早いのに、先に来ているボクを見つけると、猛ダッシュしてくるんだから」
ユリウスは恋人を弁護する。だって、本当に本当のことだから。

 

「ユリウス、せめて足は拭いた方がいいよ。ハンカチは……」
クラウスと同じくらい長身の友人が、ポケットを探った。
「あ、持ってるから大丈夫。ほら」
ユリウスは、さくらんぼのハンカチを二人に見せる。拭くのをすっかり忘れていた。
「ユリウス、風邪引かないようにね」
「ありがとう。じゃあね」

 

遠ざかる大きな傘の中から、二人の会話が漏れてくる。
「お前なら、五分で帰るだろうな」
「し、失礼な! 十分は待つぞっ」
「……五分しか変わらないじゃないか」
「お前以外だったら、一分で帰る」
「──ル……」
「……離せっ! 傘の中で狭いっ」

 

ユリウスは、友人の姿が見えなくなるまでぼんやりと眺めていた。傾いた傘の端から、ブロンドと黒髪がじゃれ合っている。

「相合い傘、したいなあ。クラウス、傘さしてくるかなぁ? そうだ、足拭かなきゃ」

ハンカチを広げたところで、ユリウスは、急に使うのが惜しくなった。別に新品というわけではないのに。
バッグにハンカチを戻しながら、ふと頭に浮かんだメロディを口遊くちずさむ。

 

「I'm singing in the rain~
Just singing in the rain~♪」

足元を見ながらタップ。ぴしゃん、と飛沫しぶきが跳ねた。

 

ふわっ……ぎゅうぅ……

「あれ? 真っ暗だ……」

あ、また独り言が出ちゃった。

 

「ごめんユリウス! 凄く待たせちまった」
「クラウス?」

広い胸に頭が埋もれて、顔が見えない。勿論、声で分かるけれど。
「ねえ……、顔、見せて」


「何だ、叩くのか? うん、今日は仕方ないよな」

「何言っているの? そんなことしないよ」
ユリウスは背伸びをして、クラウスの頬を両手で包み、
「ユリウス……?」
そのまま腕を回して抱きついた。
「良かったあ。何でもなくて……」
「怒らないのか? 一時間半も待たせたんだぞ」

 

ユリウスは答えずに、両腕の力を少し強める。剥き出しの二の腕が目いっぱい巻き付いた。髪は湿っていたし、首筋に当たる肌が冷たかった。

「お前、ずっとここにいたのか?」
クラウスは視線を足元に向ける。
「おい、びしょ濡れじゃないか。あーあ、ハンカチ持ってなかったのかよ」
クラウスは、ポケットからハンカチを引っ張り出して、彼女の足を拭った。相変わらずくしゃくしゃだったので、ユリウスはくすっと笑う。

 

「ハンカチはあるよ。さくらんぼのやつ」
「持っていたなら、なんで拭かなかったんだよ? まったく……」
「どうして、かなぁ……?」
「ほら、もう片方、足上げろ」

言われた通り、ユリウスは彼の肩に手を置いて右足を上げる。クラウスはサンダルのストラップを外し、丁寧に足の裏までを拭き上げた。

 

「擽ったいよ、クラウス」
ユリウスが躰を震わせる。
「こら、ちゃんと拭かないと転ぶだろ」
「うん」

ハンカチを一度、絞らなくてはならないほど、彼女の足は濡れそぼっていた。立っていた場所が悪かったのか。クラウスは首を傾げる。


水溜まりでタップダンスをしていたことは内緒である。

 

 

 

 

「クラウス、傘は?」
「そのへんに転がってるだろ」
「え? どういうこと?」
「これで良しと」
クラウスが、ストラップをぱちん、と止めた。
「お前が雨ン中、突っ立ってるから、驚いて放り投げちまった。お、これだ」

 

タイミング良く、開いたままの傘がユリウスの方へ転がってきた。いったいどんな投げ方をしたのか。
「もぉう、乱暴なんだから。壊れたらどうするの」

「傘なんかよりお前の方が大事だ」
どきん、とすることをさらっと言う。ほんと憎らしいんだから……。
「それより、これからどうする? 時間遅くなっちまったしなぁ。腹、減ったろ?」

 

「ねえ……、相合い傘で帰りたい」
「えっ帰るのか? いいのか? 飯は?」
「相合い傘で、帰りたい」
クラウスの腕に、ほっそりとした手が滑り込んだ。

 

「分かった。分かったよ」
クラウスは傘を拾い上げる。
傘の下で寄り添う……、否、一方的に纏わりつく柔らかい躰。
「お前っ、ひっつき過ぎ。歩きにくいぞ」

 

「文句言わない。一時間半、待たせたくせに」
鈴の音も一緒に絡みつく。
「おい、今になって責めるのかよ」
──くそう。傘が無けりゃ、抱き上げちまうのに……。
いつの間にか、雨は小降りになった。遠くの雲の切れ間から、天使の梯子が降りている。

 

「I'm singing in the rain~♪」

 

ユリウスが空に向かって片手を上げる。
淡い一瞬、クラウスは、その光芒へ彼女が吸い寄せられてしまう……と感じた。
腕の力を、強める。

 

「それ……、さっきも歌ってただろ」
「えっ、聴こえてたの?」
「お前の声は通るんだよ。何たって天使のソプラノだからな」
「それだけで、ボクだって分かるの?」
「当たり前だろ。最初にお前の声を見つけたのは、俺なんだからな」

 

女の声だ。ボーイソプラノじゃない──。

 

「そんなの、たまたま同じ場所にいただけじゃない」
「でも、真っ先に反応しただろ?」

 

確かに、その通りかもしれない。
彼だけが気づいてくれた。
例え、それが揶揄い半分だったとしても……。

 

「だから、どんなに離れていても、お前が歌えば、俺の血管がどくんどくんて波打つんだ」
「なんか……大袈裟」
「大袈裟なんかじゃない」

 

あの日、あの時、あの場所で、揶揄されて、過敏になって……。
だけど……、今はあまねそらの彼方だ。

 

「大袈裟ぁー」
笑うように髪が弾む。
「こんにゃろ、しつこいぞっ」
クラウスはその髪をくしゃくしゃと撫でたかったが、両手が塞がっているので無理だった。

 

 

 

 

部屋の空気は、ひんやりと湿っぽかった。

「……くしゅんっ」
「お前、風邪引いたんじゃないか」
「もう……、一回くしゃみしただけじゃない」
「ばか、その一回が怖いんだ。風呂入れてくるよ」
そう言って、バスルームへ行きかけたクラウスのシャツをユリウスが摑んだ。

 

「ユリウス?」
彼は驚いて振り返る。
「そんなに心配なら、クラウスが温めて」
「は?」
「クラウスが……、温めてよ」
潤みを湛えた碧色の瞳が訴える。
「ぁ…っ……」
クラウスは細い躰を引き寄せて、両頬に手のひらを当てた。

 

「やっぱり冷え切ってる。店の中にいればよかったのに。馬鹿やろう……」
クラウスはユリウスを抱き上げて、ベッドルームのドアを開け、そのまま彼女をベッドに下ろした。

「服も湿ってるじゃないか。だからさっさと帰れば良かったのに……」
ぶつぶつ言いながら、クラウスはブラウスのボタンを外していく。
「ったく信じらンねえよ、一時間半も待ってるなんて」
言っていることと、していることがちぐはぐだ。

 

「ねえ、どうしてボクが責められるの?」
ユリウスは唇を尖らせた。
「それっておかしくな……んっ」
素足がびくん、と跳ねる。
唇が、冷たいうなじに熱を落とした。薄衣うすぎぬが肩から滑る。

 

もう何度脱がされたろう彼の手で。指のかたちも覚えてしまった。

 

唇は冷えた場所を余すところなく探り当て、首筋から鎖骨へ這い回る。彼女は喉元を晒しながら、彼の肩に綺麗に摘まれた爪を立てた。

 

ふと、サイドテーブルの時計が目に入る。もうすぐ五時だ。
丸くて白い置時計。二人暮らしを始めた時に、一緒に入った雑貨店で彼が見つけた。ユリウスの手のひらに収まるサイズが可愛かった。

 

クラウスは華奢な腰を持ち上げて、ワンピースを膝まで下げる。
外はまだ雨が降っている。
仄暗い部屋に浮かぶ肢体は青白く、対照的に頬は淡く染まっていた。恥じらいで俯く顔に纏わりつく金の糸。

 

誘ったのは、自分なのに……。

 

誘ったのは、お前の癖に……。

 

あっさりと、ワンピースは足首まで落とされて、彼はそれをソファに投げた。
時計の針が五時を指す。

 

「だめ……、ク、ラウス……」
「……ここも、冷たい」
「そんなとこまで冷えてないっ、……や……ぁ」
「ここも冷えてる……」
「……ん。っ……」

 

言葉とは裏腹に本当は冷えていたのかもしれない……と少女は思った。いつもより執拗な愛撫の波に漂いながら……。

 

平気なふうを装っても、正直、一時間半は長かった。不安に押し潰されそうになり、何度もぐらぐらと躰が揺れた。
どんなに気を紛らわせようとしても、視線は常に彼を捜し、駆けてくる姿を脳が何度も再生した。

 

だから、温めてほしかったのかな……。不安のもとの張本人に。
それが一番の特効薬だもの……。

 

「ねえ……、三年前のボクを憶えてる?」
「お前のことなら、百年前だろうが百年後だろうが忘れるもんか」
ユリウスは黙ってクラウスを見つめる。
「大袈裟、って言わないのか?」
「言わないよ。ボクだって、百年前のあなたも、百年後のあなたも憶えているもの……」

 

唇が塞がれる。冷めるのを許さないように……。
ユリウスが指を絡ませた。

 

 

 

 

眠らせ姫

 

「なあ……、遅刻の理由、訊かないのか?」
愛猫を愛でるように背中の曲線を撫でられて、ユリウスは、心地良さとこそばゆさの中間にいた。
「いいよ、もう。ちゃんと来てくれたんだもん」

 

「おかしなやつだなぁ。だいたい普通は一時間半も待たされたら、怒るか、その前に帰っちまったりするんだぞ」
「そうなの? それってクラウスの実体験?」
ユリウスは、上目遣いにちらりと睨んだ。
「ばか、違うよ。世間一般的にはってこと」
「ふぅん……」

不思議そうな表情で彼女は呟く。

「逢うために、待ち合わせしたのにね」

その日しか叶わない、大切な人との大切な時間なのに。

 

「お前みたいなのは、珍しい部類に入るのかもな」
「そうなのかなあ……」
「まあ、寛容な恋人で助かったぜ」

長い指が金色の髪をくしゃりと撫でた。ユリウスは気持ち良さげに目を細める。やっぱり猫だ、とクラウスは思う。

 

「じゃあねえ……、一つだけお願い聞いて」
「おう、いいぞ。何でも言ってみろ」
「今夜は、朝までずーっと、ボクのこと離さないでいて」
「何だよ、そんなこと毎晩してるだろ」

 

クラウスは優しく猫を抱く。猫は背中を丸めて顔を彼に摺り寄せた。
「ふふ……、あったかぁい」
猫が小さく欠伸をする。

 

「姫、満足ですか?」
御伽の国の王子が訊いた。それから王子もつられて欠伸をする。
返事は無い。
王子もそれ以上、尋ねなかった。
尋ねることができなくなった。

 

おやすみなさい──。

 

 

 

 

ケータイが無かった頃の待ち合わせ。懐かしいと思うのか、不便だったと思うのか…。あなたは最高で何時間待ったことがありますか?

この二人がケータイを持ったらクラウスの「今ドコ?」鬼電は免れない、と注意喚起コメントをいただきました。はい、持たせません爆  笑

 

こちらは恋人時代の雨の話。そして現在、結婚後の雨の話をpixivで執筆中雨

成長したところ、まるで変わってないところ、その辺を比較しつつ、楽しみながらゆるゆると書いている最中です。ささやかな日々の幸せハート

 

作中のユリの歌ルンルン

 

 

 

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