雨の話続きます。
下記の話から派生したもう一組のカップルのエピソード。
「言っておくが、わたしは一時間半は待てない」
アパルトマンの窓から、いつまでも止みそうにない雨を忌々しげに眺めていた恋人がぽつりと呟いた。
先日、降り頻る雨のなか、俺たちは、待ち合わせをしているという友人に偶然出会った。
その時点で、友人が既に一時間は待っていると知ったオスカルは驚愕した。その上、そんな状況にも拘わらず、朗らかに笑っている彼女を見て、開いた口が塞がらなかった。
あの後──最終的に彼女が一時間半待ったことを聞き、オスカルは更にショックを受けているようだった。
おまけに、遅れてきた当の本人は、
『あいつは怒りもしなかった。それどころか、柔らかな笑みを浮かべ抱きついてきた』
と口元をへらへら緩ませていたんだぞ(二人は同じ学科なのだ)──と俺を睨みつけ、拳を突き出す。
おいおい、怒りの矛先を俺にぶつけるのは勘弁してくれ。
「俺は、お前を、一時間半も待たせたりはしないよ」
そう言うと、アンドレは恋人の肩に手をのせて、隣に腰を下ろす。
「ふん。そんなの当てになるものか」
「だって、お前は10分で帰るんだろ?」
返答に窮したオスカルの顔が可笑しくて、アンドレは、くくっと笑った。
「あのさ、オスカル。お前はいつも、見たまま聞いたままを真正面から捉え過ぎだ」
「どういうことだ?」
「人間はそんなにシンプルじゃないってこと」
形の良い唇が分かり易く尖った。
「悪かったな、単純で」
「誰もそんなこと言ってないだろ。怒るなよ」
アンドレは困った顔で苦笑いした。
「確かに、彼女は俺たちの前では笑っていたけど、心の中までは読めないってことさ」
「そういうお前は、相変わらず回りくどいな」
「……悪かったな」
──鈍感な幼馴染みと長年付き合っていれば、嫌でもこんな仕上がりの男になるんだよ。
「怒るな、アンドレ」
仕返しのように、オスカルが言った。悪戯っ子の笑みを浮かべて。
やられた。だけど可愛いから許す。この可愛さは自分にしか理解できないだろう、とアンドレは自負している。フランス屈指のgigoloにだって見抜けないに違いない。
「本当は、彼女も不安で胸が張り裂けそうだったってこと」
アンドレは話を戻した。
「えっ? そうなのか?」
オスカルは目を丸くする。
「たぶん色々なことで気を紛らわせていたんじゃないかな。昔のことを思い浮かべたり、わざと視線を別の方角に巡らせてみたり。だけど結局は、彼の姿を捜してしまうんだけどね」
「どうして、お前にそんなことが分かるんだ?」
「もしお前が約束に遅れてきたら、俺も同じことをすると思うからさ。ああ、断っておくけど、決してお前が冷たいと言っているわけじゃないから誤解しないように」
恋人の表情が凍りついたのを察知して、アンドレは言葉を続ける。
「俺はさ、本来なら1分も待てないお前が、俺のためだけに、その十倍も時間を割いてくれるだけで嬉しいんだ」
──たった10分じゃないか。
彼女は一時間半も待てたのに……。
オスカルは、だんだん自分が途轍もなく傲慢な人間に思えてきた。
長い睫毛がオスカルを見下ろす。肩にのった手が彼女をふわりと抱き寄せる。
優しいアンドレ。子供の頃から変わらない。
わたしは、お前に甘え過ぎているんじゃないのか……?
──10分なんてすぐだったな……。
とオスカルは思った。
大きな傘を独り占めしているので、肩が濡れることはない。
でも、一人だとこんなに余るんだ……。
片手を横に伸ばしてみる。指先に雫が当たった。
いつもの時間に正面玄関に現れたアンドレは、
「悪いけど、今日は一緒に帰れない。公開発表会の打ち合わせがあるんだ。30分はかかると思う」
そう告げて、オスカルに傘を差し出した。
「雨、けっこう降ってるから、大きい方がいいよ」
「お前はどうするんだ?」
「俺が帰る頃には止んでいるよ」
「何故そう言い切れる? お前は気象予報士か?」
気象予報士だって外すことがあるんだぞ。
「はは……、これが意外と当たるんだ」
「ふぅん……」
オスカルは何か考えている様子だった。
「じゃあ、気をつけて。寄り道なんかしないで真っ直ぐ帰れよ」
「わたしを幾つだと思っている?」
オスカルは不機嫌な顔になる。
「悪かった。でも、心配なんだ」
ふん、過保護なやつめ。
「あ、アンドレ」
オスカルは決意した。
「どうした?」
アンドレが振り返る。
「待ってる」
「え?」
「この前、ユリウスが立っていたカフェで待ってるから」
アンドレが返事をする前に、オスカルは傘を広げ、あっという間に走り去った。
「オスカルっ!!」
「あれ? 屋根がない」
運の悪いことに、カフェは定休日だった。
屋根は畳まれ、外にあったテーブルと椅子は片付けられていた。
傘があって助かった……、とオスカルは思った。店の中の時計は、辛うじて見ることができる。
グレイの雨がバラバラと傘を打った。
あっという間に、30分が過ぎた。
打ち合わせは終わる気配がまるでなかった。
──参ったな……。
アンドレは溜息をついた。
オスカルが30分待っているだけでも奇跡といえる。時計の針が更に15分進んだ時、アンドレは今度は諦めの溜息をついた。
斜め向かいの街灯の下に、オスカルと同年代くらいの小柄な少女が佇んでいた。水玉柄の傘をくるくると回している。
やがて、少女の前方から一人の青年が猛スピードで駆け寄ってきた。
「遅れてごめん! 待った?」
「もうっ、遅いぃ」
少女は、ぷうと頬を膨らませ青年を睨む。それから差していた傘を閉じ、青年の傘に入って腕を絡めた。
その一連の動作が余りにも自然だったので、オスカルは感心してしまった。
──成る程。あんなふうにやればいいのか。
少女の言葉を真似てみる。
「もうっ、アンドレ、遅いぃ」
一緒に頬も膨らます。ぷうぅ。
おえぇぇっ……。
オスカルの全身に悪寒が走った。
やはり人には向き不向きがあるらしい。
さっきは気づかなかったが、街灯の下には花壇があり、純白の紫陽花が咲いていた。
無数の花が雨に濡れ、うなだれているみたいに見える。
「重たいよう…」と言っているようだった。オスカルは、紫陽花の上に傘を掲げた。
「オスカル?」
背後からの声に振り返ると、友人が相合い傘で立っていた。
「何しているの? 一人?」
「アンドレを待っているのだ」
「お前が待たされているのか? 珍しいな」
友人の一人が目を丸くする。ほっとけ! と思ったが、オスカルは黙っていた。
「何時から待っているの?」
オスカルは、カフェの時計を覗き込む。
「えーと、かれこれ一時間に……え!? 一時間?」
自分で自分に驚いた。
「お前が驚いてどうするんだよ?」
そして、それを突っ込まれた。
「アンドレ、まだ来そうにないの? 大丈夫?」
「平気だ。ほら、足も濡れていない。アンドレだってもうすぐ来る」
オスカルは、大きな傘をくるくる回した。
「じゃあ……、風邪引かないようにね」
遠ざかる大きな傘の中から、二人の会話が漏れ聞こえる。
「おい、どこ見てるんだ? また頭が濡れちまうぞ」
「だって、ほら見てよ。紫陽花が凄く綺麗」
「お前の方が、ずっとキレイだ」
「……クラウス……」
おえぇぇっ……!
「よくもまあ……、あんな歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなく言えるもんだな」
傘の端で、金色の髪に亜麻色の髪が絡みつく。
雨音の調べでダンスを踊る四本の脚が、霞 のなかに消えていった。
「アンドレ……、早く来ないかなぁ」
オスカルは、再び紫陽花に傘を傾ける。雨が止む気配は全くなかった。
──気象予報士失格!
オスカルは、指でピストルの形を作り、空に向かって「ばん!」と打った。
「オスカルッ!!」
その声は──。
振り返り、狙いを定める。黒髪のでかい濡れ鼠が立っていた。
「何だ、お前? びっしょびしょ……」
オスカルは腕を下ろす。
「お前どうして!? 絶対に帰ったと思ったのに……。まさかと思って来てみたら」
「うるさいなあ。男の癖にぎゃんぎゃんわめくな」
「だって、お前……。初めは、幻を見ているのかと、俺は……」
「そんなことはどうだっていい! 早くその頭と顔を拭け!」
我慢できずに、オスカルは叫んだ。
「あ、ああ……」
アンドレは、もたもたと片手をポケットに突っ込んだ。オスカルは、背伸びをしてアンドレに傘を差す。
ぎゅううぅ……!
突然、オスカルは濡れ鼠に抱き締められた。
「わあっっ!! 何をする!? ぬ、濡れるっ……」
オスカルの手から傘が落ち、石畳に転がった。お構いなしに、アンドレは恋人を抱き締める。
「待っていてくれて嬉しいよ。ありがとう、オスカル」
「分かったから離せ! 冷たいっ! 風邪を引いたらどうしてくれるっ!」
「すぐに帰って、お風呂に入れば大丈夫だよ」
「ばか! わたしまで巻き込むなっ! 離せってば!」
アンドレは、ゆっくりと躰を離した。
「……ごめん。離したら、お前が消えてしまいそうな気がして」
「まったく! わたしは、ちゃんとここにいる。あーあ、ブラウスが……」
しっとり濡れた薄い布地に、オスカルが視線を落とした時、アンドレの左手の先に白いものが映った。
「お前、何を持っている?」
「あ」
咄嗟に隠したが遅かった。オスカルがアンドレの背後に回る。
「……それ、そこから抜いたのか?」
「は?」
すぐ傍で、わらわらと咲き乱れる無数の花。それが自分が手にしているものと色も形も全く同じだ、とアンドレは気がついた。
「ち、違う! これは、ちゃんと花屋で……あっこら」
油断した隙に、オスカルが、ひょいっとそれを奪い取る。
「分かっている。このリボンを見れば。ふふっ……」
純白の花束に、コバルトブルーのリボンが揺れる。オスカルは愛おしそうに匂いを嗅いだ。
「アナベルって言うんだ」
「アナベル……?」
「名前の由来は、《愛すべき》……」
アンドレが傘を拾う。いつの間にか、雨は止んでいた。
アンドレは傘を閉じ、花束に魅入っている《愛すべき》者を抱き寄せた。
「帰ろうか。冗談ではなく、ほんとに風邪を引きそうだ」
「だから言っただろうが」
オスカルにとって、アンドレの躰が濡れていることは、もうどうでも良くなった。今はもう、冷たさよりも温かさの方が勝っていたからだ。
「ちょっと惜しかったな。あと15分で、ユリウスの記録に並んだのに」
「ばか、そんなことで張り合うな。おかしなやつだな」
水滴のプリズムが、澄み切った大気に、色鮮やかな帯を描いた。
『オスカルっ、虹だよ!』
『どこ? どこっ!?』
『ほら、あっちの雲の向こうー』
『あっちじゃ分かんないってば!』
少年の手が、少女の指をぎゅっと握り、左斜め上方向へ誘導する。
『この指の先を見て』
じーーーっ。
『あったぁ!』
『ねっ?』
『きれーーい』
『きれいだねー』
小さな足が、空を目がけて走り出す。
『オスカル、転ぶよ!』
『虹、待てーー』
『下見て、オスカルっ』
『まーてぇーー』
『転ぶってばぁー』
ずさあぁっ!! どしーーんっ!!!
湿った草と土の匂い。
泥だらけのズボンの膝と、小さな手と手と手と手。
けらけら笑う二色の粒が、七色の光のアーチへ吸い込まれた。
ちゃぷん。
「お湯、熱すぎる? 顔が赤い」
お湯よりも、お前の腕と胸が熱い。剥き出しの肌のラインに触れるすべての熱が……。
と言いたいけれど、言えなかった。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、わたしも入らないといけないんだ?」
「え、今頃それ訊く?」
「濡れたのは、お前だけで……、わたしは全然……」
ぶくぶくぶく。
顔半分がお湯に浸かる。
「オスカル、髪が濡れるよ」
「……うるさい」
遅れてきたのはアンドレなのに、悪いのは彼なのに……、何故わたしが言うことを聞かないといけないんだ……。
お湯のなかで、オスカルは、ぶくぶく(ぶつぶつ)と不満を漏らす。
「オスカル……、婚約を交わした男女が一緒に風呂に入るくらい、20世紀じゃ当たり前だと思うけど?」
ザバアッ……!!
反射的に顔が上がった。
「そ、そんなこと……いったい誰が決めたんだッ!?」
バスタブにお湯を溜めている音がする。
オスカルは、花瓶の代わりにビアジョッキに紫陽花を挿した。リボンはどうしようかと一瞬考え、ジョッキの持ち手に結ぶことにする。つやつや光る海碧の帯を手に取りながら、そんな柄にもないことを思いついた自分が面映ゆかった。
「アナベル、だっけ……」
無数の花弁に顔を寄せる。微かに香る甘い匂い。
「はーーっくしょん!!」
寝室から派手なくしゃみが聞こえてきた。
「アンドレ? 早く入らないと、風邪を引くぞ」
「オスカル、お湯、見てくれるか」
「ええ? しょうがないなあ」
バスルームを覗くと、ちょうどお湯が溜まったところだった。もうもうと立ち込める湯気のなか、オスカルは蛇口を閉めにいく。
脱衣所に戻りかけた時、前方を広い胸が遮った。言葉を発する間もなく、唇を塞がれた。驚きで押し退けようとした手をアンドレは両手で摑み、自分の背中へ導いた。
口づけは繰り返される。
幾度となく舌先がオスカルの歯列を撫でる。まるで異質の生物のように上唇と下唇の境目を行き来する。
漸く観念し、苦しげに開いた唇の隙間から、アンドレの舌が逃げ惑うそれを捕らえた。
「……一緒に入ろう」
聞こえるか聞こえないかの囁きが耳朶に触れる。抗う気力は残ってなかった。抱擁は、ゆるく優しく、いくらでも逃れることはできたのに……。全身が震えている。ぎりぎりのところで立っている。
青年は駄目押しのように、桃色の耳朶へ、そしてうなじへ唇を這わせていった。
長い指がブラウスのボタンを一つ一つ、外していく。
「ア…ンドレ……」
「黙って、オスカル」
ひとたび鍵盤に手を置けば、そこから先は無限の世界。彼だけが操れる、彼の腕のなかだけで鳴る、この世で唯一無二の音色。
四分音符。八分音符。時にその半拍で。時に、二倍の速さで……。
そのテンポは彼の指だけが知っている。