上弦の月が、西の彼方に沈む───
七月の聖ゼバスチアンの寮は、殆ど人はいなかった。
夏休みに入り、生徒は自宅に帰っていく。残っているのは数人だけだろう。
ひとつの部屋のドアが開いて、また直ぐに閉められた。
僅かに開いた窓の隙間が、カーテンを揺らしている。
夜更けにはまだ早い。薄ぼんやりとしたグレィの空に白い星が瞬いている。
荷出しの済んだクラウスの部屋は、ソファやベッドなどの家具以外はすっきりと片付いていた。
「もう、何も無いんだね」
部屋の中を見渡して、ユリウスはぽつりと呟く。
「ああ、後は、身ひとつで出るだけだ」
クラウスも懐かしげに、薄く汚れた壁やベッドの傷に目をやった。
「そう……」
造り付けのクローゼットに掛かっているハンガーが寂しげに揺れている。
ユリウスは窓に近づいて、空を見上げ、星を数えた。
ひとつ、ふたつ……みっつ……
クラウスは、窓辺に佇む恋人の姿に見惚れ、無言で立ち竦んでいた。
星明かりに微かに光る金糸の髪が、そのまま天に昇っていくようで、一緒に彼女も連れて行ってしまうのではないか、と怖れた。
行くな……と手を伸ばしかけた刹那、ユリウスがこちらを向いた。
そろそろと彼女が歩み寄る。腕の中へ吸い込まれるように……。
クラウスは、ユリウスの細い手を取ると、そのままベッドに座らせる。
白いワンピースが、ふわりとシーツに広がった。
「その服で、この部屋に来た日のこと憶えてるか?」
彼女の隣に腰を下ろしながら、クラウスは訊いた。
「え? もちろん……」
「二人して池に落ちて、びしょ濡れになって──」
「ふふっ……、大変だったよね」
「それが、ぴったりと張り付いて──」
長い指が白いワンピースの襟元をつまむ。
「え……?」
「お前の躰のラインが露わになって……」
何を言いだすのかと、ユリウスは仰天し、
「そっ、そんなこと思い出さなくていいっ!」
と思わず身を乗りだす。クラウスは、まあまあまあと押し止めた。
「じゃあさ、クリスマスの夜のことは?」
一人思い出し笑うクラウス。
「今度は……何?」
「お前、一人で酔っ払ってさ、大変だったよなぁ」
何だか暴露反省会みたいになってきて、ユリウスは、みるみる身の置き所が無くなってくる。
「もぉっ! どうして今頃になって、そんな意地悪言うの?」
「俺さ、この部屋でどれだけ、お前に振り回されたと思う?」
「い……今更そんなこと言われても……」
「でも、それも今夜で帳消しだ」
急に真面目な顔になって、クラウスはユリウスを見つめた。
「え?」
彼は、ゆっくりとユリウスに顔を近付ける。そして、桃色に艶めく頬にキスを落とす。
「ぁ……」
次に瞼、額、髪に頬擦りしながら耳朶に、再び頬へと唇を滑らせる。
烟るような睫毛が震えながら上を向くと、彼の愛してやまない碧玉の瞳が浮遊する。
もう千回は超えたであろう口づけを、それでもまだ足りないと、翹望するように交わす二人に、止めるものは何もない。
しゅるん……とリボンが解かれて、
白蝶貝のボタンが上から順に外されていく。
透き間から僅かに覗く二つの円み。だが、まだ全ては見えない。
怖がらせないように。緊張させないように。
直ぐにでも暴きたい慾情を封じ込め、クラウスは金色の髪を後ろへ流す。
白い項が、眩しかった。
強く、吸う。
愛らしい唇が、あえかに鳴いた。
一瞬のうちに、柔らかな肌が火照りだす。
ユリウスの手が宙を掻き、クラウスのシャツを探り当て、ひしと摑んだ。
「……怖いか?」
項に触れたままの唇が囁いた。
「……ううん……」
掠れた声で、彼女は答える。
「そっか……。前にも訊いたよな」
「そうだよ……。言った」
「気が変わったかと、思ってさ」
そんなことを言いながら、キスは止まない。
首筋から肩のラインへ、袖が滑り落ちるぎりぎりまで。
シャツを握る手が強くなる。
「変わってたら、ここへは……来ないよ」
「そうだ……な」
その時、ユリウスがくすっと笑った。
「何だよ?」
「だって、昼間も同じこと訊いた」
「そう、だっけ?」
「そうだよ。怖いのはそっちじゃないの?」
「なっ、何だとお?」
思わず顔を上げてしまった。まともに目が合った。
形勢を引っ繰り返され、クラウスは一瞬怯む。
「もしかして怖気づいた?」
小生意気そうな碧い瞳が男を射抜く。
「駄目だよ、今さら。逃がさないから」
「おい、それは男が言う台詞だぞ」
「そんなの、関係……な……」
気のせいだろうか、なんだか声が震えている。
見ると、シャツを摑んでいる手が小刻みに揺れていた。
肩も、髪も、唇も──。
「お前、言ってることと真逆だぞ?」
「む、武者震い、だも……」
今度は、クラウスがくすっと笑った。
「痩せ我慢するな。ばか」
「ちが……っ」
「──そこまでだ」
震えが止まる。
彼の唇に塞がれて。
薄ピンク色の蕾が、熱を帯び膨らみはじめる。
ほっそりとした腕が縋るようにしがみつく。
クラウスは、背中を包み込むようにそっと抱き、蕾を綻ばせながら、ユリウスを横たえた。
サンダルを一足ずつ脱がせ、足の甲に唇を当てる。指の一本、一本にも。
彼女の足が、痙攣するように小さく跳ねた。
彼は、彼女の膨ら脛に手を添えて、揃えるようにベッドに上げる。
真っ白なシーツに、真っ白なワンピースと、真っ白な肌が混じり合うように広がった。
天使の素肌が、少しずつ露わにされていく……。
華奢な肩、美しい鎖骨、折れそうな腰、夢にまで見た──真白な胸。
クラウスはシャツを脱ぐ。
金糸のヴェール、碧く濡れる瞳、ルビィのように艶めく唇──。
どんな砂糖菓子よりも甘い吐息の奔流が、彼を飲み込んでいく。
「クラウス……お願い、明かり消して」
ユリウスが、両手で顔を覆って懇願する。
「うん?」
「でないと、ボク……顔が見れない……」
──消したら、もっと見れねぇじゃねぇか。
そう思ったが、可哀想なのでスイッチを切った。
けれども、夜は彼に味方した。
さっきまで数えるほどだった星々は、零れるほどに瞬いて……、
澄み切った夜空に咲く幾多の星が、カーテンを隔てても十分なほど部屋を照らし出す。
その光がシーツの織りに反射して、今にも泣き出しそうな彼女の顔と、穢れのない無垢な肢体を、余すところなく映し始める。
しわひとつ無いシーツの上に、金髪の天使が横たわっている。一糸纏わぬ姿で……。
俺は、そいつの白い膨らみの先端の……蕾に──
クラウスは、ぼんやりとあの日の夢を思い出した。
いきなり叩かれては敵わない。
念のため、訊いてみる。
「ユリウス、キスしていいか?」
「え……?」
もう眩々するほどしているのに……?
と、不思議そうな顔をするユリウス。
クラウスは、そうじゃないと首を振り、或る一点へ目線を向けた。
途端に少女の顔が羞恥に染まる。
「……ッ!!」
こういう時に限って、敏感に察知するのは何故なのか。
「な……、や……」
ユリウスは搔き抱くように、反射的に両手でそれを覆い隠した。
──お前、夢と一緒だよ。
それでも、止めるという選択肢は、今宵の彼には無かったけれど(じゃあ訊くな)。
もう一度、確認。
「叩くなよ?」
「……」
両の手首を、そっとつかみ、シーツの上に横たえた。
二つの手のひらが重ねられ、指と指が絡み合う。
己に賭けをするように、敢えて右手は押さえない。
スレンダーな脇にあてがうように手を添える。ぴくりと揺れたのが分かった。
彼女は目を閉じている。否、ぎゅっと瞑っている。
ふるふると唇が、わなないてるようにも見える。
彼は一瞬、躊躇した。
けれども、目の前に差し出された魅惑の果実の誘惑に、あっけなく白旗を上げた。
絡んだ指に力が入る。
そうして彼は、柔らかな丸みのその先に、そっと唇を落とした。
「……っん……」
刹那──ユリウスの全身が蕩けた。
クラウスは、初めて聴く天使の甘美なメロディに酔った。
そして夢が叶った悦びと、叩かれずに済んだ安堵が綯い交ぜになって恍惚となり、そのまま彼女の碧海に溺れて沈んだ。
ユリウスは、射るように自分を見つめる煽情的な瞳と男の体躯に囚われる。
ストラドの音色を鳴らすように、彼の指が波を打ち、彼女の糸が震えてしなる。
窓よ──
幾百、幾千もの恋人たちを、久遠の空から見下ろし続けてきた
窓よ……
限りない邂逅と別離の道程に、
一条の閃光のごとく重なり合った
若い二人の前途に、
その扉を開けよ……
汝の想い焦がれたエウリディケは……
エウリディケは───
彼女の躰と彼の躰が溶け入るように合わさった。
漆黒の空に光を放つ七つの星が、零れ落ちる彼女の涙を幾度となく掬い取る。
「ユリウス、愛して…る……」
「嬉しい……、クラウ…ス……」
出発の日───
クラウスは、大きめの封筒をユリウスに手渡した。
「何、これ?」
「コンセルヴァトワールの願書」
「え? ……どういうこと?」
「あのな、お前が俺とどれだけ離れているつもりか知らねぇが、俺は、そんな気はさらさら無いからな」
「あの……クラウス?」
初めは、状況が飲み込めないユリウス。
「いいか、来年、絶対に来い。お前のレッスンは、ヴィルクリヒに頼んでおいたから」
「なっ! なんでヴィルクリヒ先生に!?」
更に、意味が分からなくなるユリウス。
「他に誰がいるんだよ? 最適任者だろうが。レッスンは週一で、早速来週からだ」
「そ、そんなの、ボク聞いてないッ」
「お前なら絶対受かる。ゼバスに編入できたんだからな。楽勝だ」
「クラウス、あのねボクは……」
ますます理解に苦しみだすユリウス。
「これは命令だ。希望じゃない、願望でもない。命令、だ!」
「ちょっと! そんなの横暴だってば! ボクの意志は無視なの?」
「これが最初で最後だ。あとは一生、お前の言うことは幾らでも聞いてやる」
「そういう問題じゃないよ! あぁもう信じられない、勝手過ぎるよっ!」
だんだん腹の虫が治まらなくなってくるユリウス。
「うるせー! 俺はお前以外のパートナーは考えてないからな。お前が来るまで誰ともペアを組む気はない。だから、死んでもストレートで受かれよ」
「そんな無茶なっ!!」
もはや、傍若無人としか思えないユリウス。
「俺の部屋の隣が今、空いているんだ。流石に一年間確保しておくことは無理だが、まぁいざとなったら一緒に住めばいい。ベッドは一つだけど別に問題ないよな?」
「ク、クラウス!?」
急に話がすり替わり、ついていけなくなるユリウス。
「だいたいお前、俺にいつまで侘しい独り寝をさせとくつもりだ? ん?」
「え? え……!?」
「お前が俺に、火を点けたんだからな」
「そんなっ……、今になってそんなの……狡い」
まるで弱みを握られたように、足の爪先が浮いてくる。
それでも、なんだかどうにも釈然としないユリウス。
「覚えとけ。音楽も人生も、俺のパートナーはお前だけだ」
心臓を──射抜かれた。
意識が徐々に遠退いていくのをユリウスは自覚する。
このバリトンに揺さぶられるのは、これでもう何度目だろう。
そうなる度に考える。
そうなるごとに、解らなくなる。
そんなことはどうでもいいことなのだと、ユリウスは、この時やっと理解した。
『愛の挨拶』エドワード・エルガー(イギリス)
エルガーが婚約者に贈った曲。
原題は『Liebesgruss』(ドイツ語を得意としていた婚約者アリスの為に)、
のちに『Salut d'amour』(フランス語)に変更。
英題は『Love's Greeting』
原題がドイツ語ということもあり、いつか「二人の記念日」を書く時は、このタイトルにしよう…と心に決めていました。
ヴァイオリン🎻
ピアノ🎹
ベッドの上での二人の戯れ言
こちらのそれぞれの夢オチの部分だけ読み返していただけると、繋がりやすいと思います。