「いじめ」という言葉は、あまりにも大きく括られすぎているのではないか。
ニュースなどを見ていて感じることがある。
それは、「いじめ」という言葉の使われ方が広すぎるのではないか、ということだ。
例えば、世間で大きく報道された旭川の事件。あれを見て、僕は「いじめ」という言葉だけで片づけてしまっていいのだろうかと思った。暴力や脅迫、人格を踏みにじるような行為が繰り返され、結果として重大な被害が生じたのであれば、それは単なるいじめではなく、明確な犯罪として扱うべきではないかと感じる。
もちろん、昔から「いじめ」は存在してきた。
僕は、いじめとは、集団の中で「できる人」と「できない人」の差から生まれるものだったのではないかと思っている。
例えば、10人のグループがいたとして、9人は木登りができる。でも1人だけ木登りができない。その1人に対して「木登りもできないのか」などと言う人が出てくる。もちろん、そうした言動が正しいとは思わない。しかし、その背景には「みんなと同じことができない」という理由がある。そして、もし本人が木登りをできるようになれば、そのいじめの対象から外れる。
一方で、今問題になっているケースは、それとはまったく性質が違う。
「お前なんか生きている価値がない」「存在そのものが気に入らない」といった、本人の存在自体を否定するような言葉。あるいは、殴る、蹴るといった暴力。
こうしたものは、本人の努力ではどうにもできない。
どれだけ頑張っても、「存在そのもの」を変えることはできないからだ。
だからこそ、僕は存在自体を否定するような行為は絶対になくなるべきだと思うし、暴力を伴うものは「いじめ」ではなく、犯罪として認識されるべきだと思う。
また、もう一つ考えることがある。
集団の中で「省かれること」や「無視されること」を、すべていじめとして扱うのは本当に正しいのだろうか。
人は誰とでも仲良くできるわけではない。価値観が合わなかったり、協調性に欠けたりして、自然と距離ができることもある。集団の中でうまく馴染めず、結果として輪に入れないこともあるだろう。
もちろん、特定の誰かを傷つける目的で組織的に無視をしたり、孤立させたりするのであれば、それはいじめだ。しかし、単に「気が合わない」「関わりたくない」という個人の選択まで、すべていじめと呼んでしまうのは違うのではないかと思う。
「いじめ」という言葉は、本来さまざまなケースを含む言葉だ。しかし、その中には犯罪と呼ぶべきものもあれば、人間関係の問題として考えるべきものもある。
すべてをひとまとめにして「いじめ」という言葉で片づけてしまうと、本当に深刻な犯罪行為の重大さが薄れてしまうかもしれない。
だからこそ僕は、「いじめ」という言葉をもっと細かく分けて考えるべきだと思う。
犯罪は犯罪として扱うこと。
存在を否定する行為は決して許されないこと。
そして、人間関係のすれ違いや集団への適応の問題とは区別して議論すること。
感情論だけではなく、「何が問題なのか」を整理して考えることが、これからの社会には必要なのではないだろうか。