最近、自分が大人になるにつれて、差別用語や「これは使ってはいけない言葉だ」という話を耳にする機会が増えた。


もちろん、差別をすることは良くないと思っている。誰かを傷つけたり、見下したりすることは避けるべきだと思う。


しかし、その一方で疑問もある。


本当に、あまり使われていないマイナーな差別用語まで、わざわざ覚える必要があるのだろうか。


差別用語を知ることで、使わないように気をつける人もいる。だが逆に、「相手が嫌がる言葉」として知ることで、わざと使う人が出てくるのも事実だと思う。

特に、一部の人しか知らないような差別用語ほど、その傾向は強いのではないだろうか。


だからといって、「知らなくていい」と言いたいわけではない。


ただ、もし差別を減らしたいのであれば、禁止されている言葉をただ覚えること以上に、もっと多くの人が知るべきことがあるのではないかと感じる。


例えば、統計的差別のようなものだ。


「この年代の人はこうだ」「この職業の人はこういう人だろう」「この属性の人はこういう傾向があるはずだ」。


そんなふうに、本人に悪意がなくても、無自覚のうちに誰かを属性だけで判断してしまうことがある。こうした差別は、むしろ誰にでも起こり得るものではないだろうか。


だからこそ、無意識の差別ついて学ぶことのほうが、社会全体にとって重要なのではないかと思う。


また、「〇〇屋 」や「看護婦」のような言葉についても考えることがある。


自分自身は、それらを聞いても差別用語だとは感じない。しかし、人によっては差別的だと受け取ることもある。


もちろん、相手が嫌だと感じるのであれば配慮することは大切だ。


ただ、その一方で、「知らなかった人」をすぐに責めたり、「そんなことも知らないのか」と非難したりする社会にも違和感を覚える。


本来であれば、「この言葉にはこういう背景があるんだよ」と教え合うことができればいいはずだ。


けれど最近は、「無知な相手が悪い」と切り捨ててしまう場面も増えているように感じる。


事情や意図を考えず、「その言葉を使った」という事実だけでその人が差別をしたのだと決めつけ、人格まで否定してしまうことには違和感を覚える。


差別をなくそうとするのであれば、相手の背景を知ろうとせず、一方的に決めつけて攻撃することもまた、本当に望ましいことなのだろうか。


このことを考えていると、ゲームのマナー問題を思い出す。


FPSやTPSなどの対戦ゲームには、「死体撃ち」と呼ばれる行為がある。倒した相手の死体に向かって撃つ行為で、ゲームをよく知っている人からすると「相手を煽る行為」であり、絶対にやるべきではないマナー違反として認識されている。


しかし、その文化を知らない人からすれば、単に撃っているだけで、悪意なくやってしまうこともある。


一方で、「それが相手をイライラさせる行為だ」と知ったことで、わざと煽り目的で行う人もいる。


この構造は、差別用語の問題と少し似ているように思う。


みんなが知ることで減ることもある。


しかし、知ることで悪意を持って使う人が増えてしまう可能性もある。


だからこそ、「差別用語をどこまで知るべきなのか」という問題は、とても難しいと思う。


僕は、多くの人は、最初から誰かを傷つけたり、差別しようと思っているわけではないと信じたい。


もちろん、教育や親の躾だけで全てが決まるわけではないし、それだけが原因だと言い切ることもできない。


そして、しっかり教育や躾を受けていても、人は無意識の偏見を持ってしまうことがある。


大切なのは、そのことを自覚し、背景を知ったときに「どうすれば相手を傷つけずに済むだろう」と考えようとする姿勢なのではないだろうか。


たとえ今ある差別用語をすべてなくしたとしても、誰かを見下したいという気持ちが残っている限り、新しい言葉は生まれるだろう。


だからこそ、本当に向き合うべきなのは「使ってはいけない言葉」を増やしていくことだけではなく、他者を尊重し、自分の偏見に気づこうとする姿勢を育てていくことなのかもしれない。


差別をなくすことは簡単ではない。


だからこそ、一人ひとりが「自分の言葉で相手を傷つけていないだろうか」と考え、もし誰かが知らなかったのであれば頭ごなしに責めるのではなく、背景や意味を伝え合う。


そんな小さな配慮の積み重ねが、少しずつでも差別を減らしていくことにつながるのではないかと思う。