神武天皇
(※神日本磐彦天皇。諱は「彦火火出見」)

初代天皇 といえば「神武天皇」の事を指しますが、次代以降の 綏靖天皇 ~ 孝元天皇 までの「欠史八代」の実在性について諸説あることからも、

第10代天皇 である 崇神天皇(※御肇國天皇 : ハツクニシラススメラミコト) 神武天皇 を同一視する説が有力です。


ヤマト王権(※大和朝廷)  初代 大王(※ヲホキミ) は、崇神天皇 であるとされています。


神武天皇と 皇后・媛蹈鞴五十鈴媛 を祀る 橿原神宮 が創建されたのも、
大日本帝国憲法が制定された翌年の 明治23年4月2日 です。

古い学説ですが、水野祐 「三王朝交代説」など、万世一系 に対して真っ向から対決するものもあります。

神武天皇 から 推古天皇 までの間に、崇神王朝(※三輪王朝)応神王朝(※河内王朝)継体王朝(※越前王朝が存在したとするものです。

ですが、水野が主張するような「全く異なる血統による王朝交代」が起きたとする説 は、万世一系 を否定する学者の間でも 現在は殆んど支持されていません。

「飛鳥」「奈良」「平安」と、政治の拠点(※首都) が移動すること自体はその後も普通に起こっており、
それ自体を「王朝交代」に結びつけるのは浅はかに違いありません。

加えて、大王(※皇室の祖先) が血縁によって続いていたことについて争わないにしても、
近年は「大和朝廷」という言葉そのものが教科書から削除されつつあるように、それに変わる「ヤマト王権」が、皇室の祖先と豪族らによる合議体のような連合体 と考えられるようになったからであり、王朝 として確立されるのはそれよりも後の時代になるわけです。
ちなみに、

はじめて天皇」という称号が歴史に登場した頃の 天皇陛下 は、

推古天皇 です。



【皇統は、男系のみとは限らない】
皆様は 神功皇后 をご存じですか?


仲哀天皇(※第14代天皇) の 皇后 で、応神天皇(※第15代天皇) の母。

神功皇后 の 父・息長宿禰王 は、開化天皇 の 玄孫。

熊襲征伐 に際して、神託に背いて敗れた 仲哀天皇 が 崩御 された後、
皇太后 として 摂政 となり、お腹に 皇子(※後の応神天皇) を身籠ったまま朝鮮半島南部に進軍し、三韓征伐 を成し遂げた とても強い 女性皇族 です。

 


三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。



第二次世界大戦後、政治的な理由により任那問題を避けることが多くなっていた[3]が、倭が新羅百済を臣民としたなどと書かれている『広開土王碑』の改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと[4]、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による影響力の存在について認める様々な見解が発表されている。また、『隋書』や『宋書』においても、任那という用語を散見する[5]

仮に、倭国からの使者の言い分だとしても、その他の朝鮮半島の諸国の条もあり、公平な記述とし、東夷伝の中で謳っており、『宋書』を編纂した沈約により、朝の直前までの南北朝時代の前半には、中原の地ではそのように認定していたと考えられる。


しかも、神功皇后 は 崩御 されるまで 69年もの長きにわたり「摂政」の地位にあり続けたことから、
明治時代までは 一部の史書 (※「常陸国風土記」、「扶桑略記」、「神皇正統記」) において、神功皇后 は「15代天皇」であり「初代女帝」として記載されていました。

更に付け加えるならば、応神天皇 が誕生されたのが 仲哀天皇 が 崩御 した日から十月十日を過ぎていることから、
仲哀天皇(※父)  応神天皇(※子) との間に血縁関係がないことを示唆しているとする説もあります。


つまり、応神天皇 は、
「女系天皇」
と、解釈する余地もあるのです。
 


「男系絶対」に凝り固まっていると、却って 皇統の連綿 を説明できなくなってしまうおそれもあるのです。

「万世一系」に甘んじていると、見落としがちな事ですね。