それにしても、不破氏の自己批判は、もう40年前のことである。何を自己批判したのか知らない人も多いだろうから、まず少し解説をしておく。

 前回書いたように、1950年代後半、共産党は61年綱領を確立するために大論争をくり広げていたのだが、その過程で不破氏と上田氏は、『戦後革命論争史』という本を刊行した。上田氏が主要な執筆者だが、他にも党員学者数人が研究会を積み重ねてきたものだったそうである。版元は大月書店で、編集部も積極的に関与して刊行された。

 なぜこの本を刊行したかについては、上田氏『戦後革命論争史』のはしがきで書いている。ソ連共産党20回大会でいわゆるスターリン批判があったことで、自分たちの信じてきた理論は何だったのかという反省が生まれた。上田氏は、フルシチョフによるスターリン批判を「ほとんど読みとおすのに困難をおぼえたほどのあの文章によって与えられた苦痛」と捉えつつ、マルクス主義者がとるべき態度について次のように述べている。

 「その苦痛は、私たちに過去を見直すことを強いる。すべてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえ、まったくまちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた以上、私たちの進路をさぐるためにも、すでに歴史的判定のくだったものと思われているもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲り角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直すことを、フルシチョフ報告は強いているともいえよう。」

 これは大事な見地である。理論活動にも政策活動にも言えることだが、自分は無条件で正しいと思っていても国民には支持されず、現実を動かせないような理論や政策は絶えず見直しすることが求められるからだ。

 ところが、83年の自己批判で、上田氏はこれを否定した。

 「先に引いた私の叙述(「はしがき」のこと――引用者)は、党員理論家個人が、党の決定や方針を『誤り』と感じ、みなしたとき、むしろ決定や方針を重んじないで、党内か党外かなどにこだわらず、公然と勇気をもって自説を発表すべきであるかのような含意をふくんでいる。集団的決定を重んじ、党の組織原則を守りながら、意見をいうことの重要性は、言及されていない。言及されていないだけでなく、私自身が自由主義、分散主義の傾向、事実上の分派主義に深くおちいっていたことは、この書全体がしめしている。」

 それにしても、なぜこれが「分派」なのかである。(続)



とりあえず、当時の日本共産党がどのような状況におかれていたのか『補足』説明させていただきますね。



1953年(昭和28年)3月5日に スターリンが死去し、新たに指導部となったフルシチョフ1956年のソ連共産党第20回大会においてスターリン批判の演説を行いました。

 



歴史的に第3インターナショナル(※コミンテルン)の影響を強く受けてきたマルキストによって結成された日本共産党 にとって、
言うならば 親であるソ連共産党の豹変 に対し、動揺はしたものの、
大衆に取り入るためにそれを認めざるを得なかったわけです。





日本共産党は、昭和27年(1952年)の衆議院解散総選挙によって22議席から0議席となる大敗北を喫し、
51年綱領に基づく暴力革命路線が国民大衆から見放されたこともあり、非常に苦しい立場にありました。





スターリンの喪もまだ開けぬ 翌28年3月14日の『バカヤロー解散』でも、結局議席は1議席しか獲得できない状況でした。

満身創痍の日本共産党が、以前から薄々漏れ伝わってきた『労働者の祖国』ソ連の実情に対する国民大衆の 不信感をごまかす上では、
自らの理論的な敗北を受け入れなければならなかったというわけです。

 

しかし、それだけでは終わらなかったわけですね(笑)!?


独善的な共産党が、すんなりと自分達の間違いを受け入れられるとは考えにくいですし、
『党』という、人民大衆の前衛に立ち、プロレタリアートの革命を指導する至上の存在 が、敗北してしまった事実を、素直に受け入れられる筈もありません。



要は「謝ったら死ぬ病」にでもかかった、非常に面倒臭い人達 なのです(笑)。