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記念館が開館して2年目になった4月の事ですが、半年ほど前から咳が止まらず夫人は風邪と言って通院していましたが、最近の医師は結核についての経験が無く、肺がんの疑いと診断され大きい病院を受診したところ、肺結核であることが判明して名古屋市の東にある名古屋東記念病院へ隔離入院されてしまいました。
咳がでるようになって半年間も記念館で顔を合わせていたため、夫人から言われるままに身元保証人になり、言われるままに荷物を持って病室を目指すと、複数の看護師さんから病棟へ入る前に高額なマスクが必要と言われ、病室内では夫人から「この部屋の中が一番危険」と言われ、目に見えぬ恐怖の病院を後に帰宅しました。
2008年4月15日
2008年4月16日
他人ごとに思っていた結核でしたが、一週間後に名古屋市の中川保健所から連絡が入り、濃厚接触者として感染している可能性を示され、保健所の予定する検査日まで多くの人々と接触(議員活動や記念館の案内)することから、当日に地元のかかりつけ医で検査を受けました。
当時の記念館は、夫人と私が一週間おきに案内していましたが、私は同じ津島市から同行していたボランティアの辰巳さんと毎週記念館の留守番と案内をすることになり、夫人から休館しないと言われて部屋の目に見えない結核菌や、入館された方々に後ろめたい心境でマスクをして案内していました。
当時の毎週日曜日に記念館で二人で案内する生活が半年に及び、辰巳さんには随分と辛い思いや体験にしてしまったと思います。
5月31日
やっと退院することになりましたが、夫人の結核は完全に治っていたわけではなく、他人に感染させないようになったと診断されての退院だったため、病院へ入るのも恐怖心があり、退院の日は同級生の渡辺君に同行してもらいました。
彼は津島市で私と同じ福祉有償移送のボランティアにも参加しており、夫人が横井さんの闘病中の弟さんを記念館へ引き取った際には、病院や施設へ連日のように送迎しており、当たり前のようにお礼も言っていなかったことには反省の一語となります。
2009年4月8日
昨年2年前に亡くなった夫人を忍ぶ会が名古屋市で催され、集まった報道陣へ記念館の閉館と、夫人の親族から名古屋市では頼る人も皆無のなかで、夫人が独りで記念館を運営してきたと報道されましたが、現実には夫人が亡くなる前から記念館を運営するためNPO法人も立ち上げてあったことや、夫人の生活を支援していた人、横井庄一さんの親族、記念館の応援者から多くの連絡があり、記念館の実態を知らないマスコミの発信に抗議するよう言われました。