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横井庄一さんのお墓

 

本日は名古屋市中川区の行雲寺と千音寺霊園にある横井庄一さんのお墓2カ所の掃除とともに正月用のお花を供えてきました。

 

菩提寺本堂

手水舎の横です

陸軍軍曹の墓標

浄華院釋正勇

昭和30年5月母親が建立

戦歴

 

横井庄一さんは平成9年に亡くなり、2年前に夫人も亡くなりましたが、3年前からは肉親と言うよりも大鹿家(大鹿庄一)の後輩(嫡男)として、私と家内がお墓の掃除と花を供えてきました。それ以前は私の娘が花を供えていました。

 

※横井さんは養子になる小学校5年生まで我家で大鹿庄一として生活していました。

 

夫人が存命中は千音寺霊園にあるお墓を案内されていましたが、本当のお墓は中川区千音寺の行雲寺にあり、昭和30年に横井さんの母親「つる」さんによって建立されたお墓が横井家によって建てられた正当なお墓です。

 

新しいお墓

グアム島小動物の慰霊碑

 
お墓が二つもあるのは紛らわしいものですが、夫人が亡くなって三回忌も済んでいるため正しい記録として、二つのお墓について書き記しておきたいと思います。
 
平成11年に横井庄一さんの新しいお墓が夫人によって建立されましたが、これは夫人と夫人の兄の意志によって建てられたお墓で、横井庄一さんの意志や遺言で建てられたお墓ではありません。
 
横井さんは生前に親族の集まる場所で、「母親が生きとるうちから入るお墓まで用意してくれて」と語っており、後継者となる子供も居ないことから、新たなお墓を建てる気持ちは微塵もなく、夫人は「遺言」と語っていたものの、私は「墓を作るくらいならグアム島で殺生して食料にした小動物の慰霊でもしてくれ」程度の話はしたかもしれないと思いますが、このお墓は庄一さんの遺言で建てられたお墓ではありません。
 
どちらにしても、子供や後継者のいない横井さんは、没後のお墓も一人ぼっちとなり、母親のお墓にも入れませんでした。
 
私の後継者にまで横井さんのお墓掃除を頼めませんが、私の生業(朝日新聞販売店の起業)と、私の家内との学生結婚(仲人)にも横井さんが矢面にたって応援してくれた恩があるので、元気なうちは血縁者として通い続けたいと思います。
 
横井庄一さんについては、発見当初は取材する記者から正直な肉声が報道されていますが、夫人と結婚後は夫人の立ち合いで応対しており、特に没後は夫人の理想とする横井庄一像が取材されて発信されることで、横井さんの本音や素顔が伝わらなくなりました。
 
ちなみに、結婚後の参議院選挙への立候補は親族全員が反対するなか夫人の兄の画策で決まり、本人はこの立候補によって親しかった新聞記者が距離をとって離れていき、更に落選後はグアム島の洞穴生活より大きいショックを受けました。
 
このことが、若々しく外交的だった性格をオタクのようにし、その後は次々と病気がでて行動そのものが変わりました。
 
私が中心となって開館した横井庄一記念館についても、生前の横井さんは遺品や資産はすべて世間様にお返しすると語っており、夫人もすべて名古屋市へ寄贈して京都へ帰る段取りをしていましたが、名古屋市から思っていたような道筋が示されず、夫人から届いた怒りの手紙を読んだ私が、夫人が生きていく生きがいとして記念館開館を進言しました。
 
この記念館についても、お墓とともに夫人の口から横井の遺言として説明されていましたが、実際には庄一さんの遺言ではありません。本日行雲寺のお墓に立って、葬儀が始まる前にモーニングショーの司会をされた江森陽弘さん(発見当時の朝日新聞社横井番)と一緒に写真を撮った事が脳裏に浮かびました。
 
私が元気で発信できる間に、親族として本当の横井庄一さんの素顔や言葉から、飾られていない自然な姿を書き残していきたいと思います。