冷泉 為尹(れいぜい ためまさ) (1361-1417)
南北朝時代から室町時代の公卿(くぎょう)歌人。
伊勢大輔(いせのたいふ。990年~1070年頃)
祖父は49番・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、父は正三位神祇伯・大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)で、代々歌詠みの家系として知られていました。父が伊勢神宮の祭主、神祇大副(じんぎのたいふ:大輔)の職にあったところから伊勢大輔と呼ばれました。美貌の人で、上東門院彰子が中宮として敦成親王を生んだ50日目の祝宴には、選びぬかれた若女房の一人として配膳に奉仕しています。
57番・紫式部とともに、2年後に出仕した56番・和泉式部とも親しい間柄でした。名高い歌人として認め合っていた2人は、初対面の夜、寝ずに語り明かしたと伝えられています。彰子が開いた「上東門院菊合(じょうとうもんいんきくあわせ)」など、多くの歌合で高い評価を得ました。自分で歌合を主催したこともあり、多くの歌人と交友しています。
勅撰集に51首も選ばれ、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人です。
後年は、白河天皇の育児の任にあたったようです。夫は中宮定子のいとこ・高階成順(たかしなのなりのぶ)で、2男3女に恵まれました。「古本説話集」によると、成順は「いみじうやさしかりける人」だと記されています。誠実で人々からの信頼も深かった夫と、幸せな結婚生活を送りつつ、出産後も仕事を続けました。康資王母(やすすけおうのはは)など3人の娘はいずれもが勅撰歌人となっています。やがて夫が出家し、大輔自身も夫の一周忌の頃(1060年以後)に出家して山里に移り住みました。老いてもその才気は衰えず、70歳(または80歳)という高齢で亡くなったようです
岐阜県池田町の道の駅「池田温泉」の駐車場にある石碑ですが、伊勢大輔の名前から男性と思っていると女性歌人で、寝覚めの里や高野川と記されているため、当地に関係する人物かと思ってしまいますが、京都や愛知県など記された環境が良く判りません。
一般的に寝覚めの里と言うと、長野県上松宿にある「寝覚ノ床」が有名なため、長野県のように思われてしまいますが、日本武尊が干潟に打ち寄せてくる波音で寝覚めたという伝承で、愛知県の熱田神宮やその周辺が候補地になっています。
江戸時代の旅行案内書『東海道名所図会』には、寝覚めの里については熱田の宮駅、浜の鳥居の東と記される一方で、美濃地方との説もあると記されています。
伊勢大輔の歌では波の音ではなく、風の音が歌われており、いかにも岐阜県池田町のような感じもしますが、歌碑が京都の高野川にあったのか、歌を記した石が高野川にあったものか由来が理解できないため、せっかくの歌碑だけに解りやすい説明が欲しいですね。
さて、道の駅池田温泉については、日本中を旅して2年前に池田温泉で一緒に車中泊した上高地のボランティア仲間の「流山のおっさん」から、泉質は日本一と言われたことがあり、その後何度も訪れていますが、大垣市から池田町にかけては魅力ある観光資源が複数眠っています。
令和1年12月15日、16日
2021-05-30
4月11日の一言