元の状態に戻してしまう事を白紙に返すと啓示する。

 

 4世紀に成立した大和朝廷であるが、勢力の拡張を図り、日本海域では、イズモよりコシ地方がより重要な地域となり、密接な関係を持ち始めた。
これには、ヤマト政権がすでに西方の海外へは瀬戸内海上航路を確保していたことが大きな理由であった。それに対してヤマトから南山背−琵琶湖上水路−コシとつながるルートは、コシの諸豪族を直接に弾圧し、対高句麗外交を確保する上には重要な意義をになうものとなっていた。
 部民制
大和の天皇、皇族、豪族などが、全国各地の人々の一部を自分のものとし、その人々の労働による稲や織物などの生産物を納めさせる仕組みです。この監督には、国造があたります。七尾には、若倭部(わかやまとべ)と呼ばれる部民(べのたみ)がいた。
 日本海域では、イズモよりコシ地方がより重要な地域となり、密接な関係を持ち始めた。ヤマトから南山背−琵琶湖上水路−コシとつながるルートは、コシの諸豪族を直接に弾圧し、対高句麗外交を確保する上には重要な意義をになうものとなっていた。
 北陸は、海外文化の流入口としては、主に高句麗文化の流入口となったのだ。
 山背大兄をおさえて王位に就いた田村皇子(舒明天皇)は、その執政の晩年、639年頃から百済大宮・百済大寺の造営に着手したが、はかばしくなかった。そのあとを継いだ大后宝皇女(皇極天皇)は、百済大寺の完成を急いで大規模な力役をおこしたが、そのときまず、「近江と越との丁」の挑発を命じている。これには、すでにコシ(北陸)を掌握したことが前提になっていた。コシの人民には、かれらの地域から求められるものとは別に飛鳥のヤマト政権にも力役も及んでいたのであった。
 この動向は、蘇我本宗家が645年に亡んでも変わらなかった。

 神話時代から7世紀前半にかけ、能登は、「コシ」と呼ばれていた。7世紀後半、「コシ」は越前・越中・越後の3つに分かれ、この時、能登地方は加賀地方とともに越前国に入ります。現在の七尾市と鹿島郡は越前国能登郡となります。
 養老2年(718)能登は、珠洲郡・鳳至郡・能登郡・羽咋郡の4郡をもって越前国から分かれて能登の国になります。
 中央の権力を東北地方に及ぼすための基地を能登に置こうとする目的があり、天平13年(741)能登国は廃止され、越中国に組み入れられる。天平宝字元年(757)再び能登国が置かれます。
 東北地方に大きな反乱が起こったこと、朝鮮の新羅に向けて出兵を計画するなど、内外に緊張した事態となる。その為に、能登を一つの国として防備を固める必要に迫られた為である。
 以後、能登は、ずっと独立を保ち続けます。能登国が成立した頃、まだ加賀は湿地帯の多い荒れ野原が多く、国として独立するような状況にありませんでした。つまり、七尾鹿島は石川県で一番早くから国府として開けた町となる。
 大和政権が地方を支配した氏姓制度では、ノトの国造には最高の臣の姓が与えられた。これによって、ノトを支配していた王のノト氏がノト臣と呼ばれるようになった。
 つまり「能登の国」は、もともとの先住民の国ではなく、支配国家大和朝廷の植民地であった。

 私有地である荘園も、能登ではつくられず、国の直接の支配地であって、・・。

 

 能登は、国家権力の支配下にある地域として、白紙に戻されたと坂井はみる。