校本天理教教祖伝は、校本である。
精選版 日本国語大辞典 「校本」の意味・読み・例文・類語 こう‐ほん カウ‥【校本】によれば、
① 数種の伝本を校合して、本文の異同を示したテキスト。伝本の本文の違いが一覧できるようにまとめられたものもある。② 校合(きょうごう)に用いる本。とある。
校本教師伝とは、数種の伝本を校合して、書かれたもので、つまり内容には異同があるという事だ。
本文中の、真柱の記述には、顕著な異同がある。校本教祖伝の素人作文のあざなさがある。
上田ならいとの系列の上田義成さんがお子さんを不幸見ているのは、その異同をきちんと示してないからだと、生まれたものを確認しない者へのお𠮟りだと、坂井は勝手にそう思っている。
本文を太字で以下に引用する。お言葉は赤字で、問題部分は青字にする。
明治十八年:
明治十八年になると、教祖は八十八歳。この年、北の上段の間の南につゞく二間通しの座敷で、米寿を祝われたが、その席上、教祖は、当年二十歳の真之亮と前川菊太郎の二人を、同時に背負うて、座敷を三周なされた。並み居る人々は、驚きの眼を見はった。
さて、竹内等の計画は、次第に全国的な教会設置運動となり、明治十八年三月七日(陰暦正月二十一日)には、教会創立事務所で、真之亮、藤村成勝、清水与之助、泉田藤吉、竹内未譽至、森田清蔵、山本利三郎、北田嘉一郎、井筒梅治郎等が集まって会議を開いた。その席上、藤村等は、会長幹事の選出に投票を用いる事の可否、同じく月給制度を採用する事の可否等を提案した。
議論沸騰して容易に決せず、剩えこの席上、井筒は激しい腹痛を起して倒れて了った。そこで、教祖に伺うた処、「さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、
どんなゑらい者になるやわからんで。」と、仰せられた。この一言で、皆はハッと目が覚めた。竹内や藤村などと相談して居たのでは、とても思召に添い難いと気付いたのである。
が、本格的な教会設置運動の機運はこの頃から漸く動き始め、この年三月、四月に亙り、大神教会の添書を得て、神道管長宛に、真之亮以下十名の人々の教導職補命の手続きをすると共に、四月と七月の二度、大阪府へ願い出た。
最初は、四月二十九日(陰暦三月十五日)付で、天理教会結収御願を、大阪府知事宛提出した。十二下りのお歌一冊、おふでさき第四号及び第十号、この世元初まりの話一冊、合わせて四冊の教義書を添付しての出願であった。
教導職補命の件は、五月二十二日(陰暦四月八日)付、真之亮の補命が発令された。つゞいて、同二十三日(陰暦四月九日)付、神道本局直轄の六等教会設置が許可され、更に、その他の人々の補命の指令も到着し、六月二日(陰暦四月十九日)付、受書を提出した。
この年、四国では、土佐卯之助等が、修成派に伝手を求めて補命の指令を得た。世間の圧迫干渉を緩和しようとの苦衷からである。
しかし、天理教会結収御願に対する地方庁の認可は容易に下らず、大阪府知事からは、六月十八日(陰暦五月六日)付、願の趣聞届け難し。と、却下された。
十八年六月のふし: 六月二十日(陰暦五月八日)には、岩室村の金蔵寺の住職村島憲海、村田理等が、お屋敷の門戸を蹴破って乱入した。余りの事に、真之亮は告訴しようとしたが、丹波市村の駒村顯夫が仲に入って謝って来たので、ゆるした。
翌七月三日(陰暦五月二十一日)には再度の出願をした。神道天理教会設立御願を大阪府知事宛に提出したのである。この時には、男爵今園国映を担任としての出願であった。
十月八日(陰暦九月一日)には、教会創立事務所で、真之亮も出席の上、講元等を集めて相談して居た処、その席に連って居た藤村成勝、石崎正基の二人が、俄かに中座して布留の魚磯へ行き、暫くして使者を寄越して、真之亮と、清水与之助、増野正兵衞の三名に、一寸こちらへ来て貰いたい、と言うて来たので、これは必ず悪企みであろう。とて、行かなかった処、藤村のみ帰って来て、清水に小言をならべた。しかしその夜、石崎は逃亡した。
十月になると二十八日(陰暦九月二十一日)付で、又々、聞き届け難し。と、却下の指令が来た。この時、教祖に思召を伺うと、
「しんは細いものである。真実の肉まけバふとくなるで。」
と、お言葉があった。
親神の目から御覧になると、認可云々の如きは全く問題ではなく、親神が、ひたすらに急込んで居られるのは、陽気ぐらしへのつとめであった。激しい迫害干渉も、実は、親神の急込みの表われに外ならない。しかるに、人々はそこに気付かずして、たゞ皮相な事柄にのみ目を奪われ、人間思案に没頭して居たから、空しい出願を、繰り返して居たのである。
かね/\教祖は、しんばしらの真之亮と仰せになり、道のしんを明らかに示して居られる。しかるに、いかに焦ればとて、何の理も無い人を、たとい一時的にもせよ、責任者とする事は、全く心の置き所が逸脱して居たからである。
こゝのところをよく考えて、先ず、確りと心の置き所を思案せよ。しんに肉を巻け、とは、しんばしらに誠真実の肉を巻けという意味で、親神の思召のまゝに、真之亮に、理の肉を巻けば、たとい、今は若輩でも立派なしんばしらとなる。と、人間思案を混えぬ神一条の道を教えられた。
この年には、河内国出身で、当時、大和国郡山在住の平野楢蔵が、信仰し始めた。
(以上が校本教祖伝の本文である)
本文中の、「しんに肉を巻け、」とは、しんばしらに誠真実の肉を巻けという意味で とあるのは、これは間違いである。実をまくという事で、しんばしらの言うとおりにしろという意味である。
しんばしらのお言葉を、実行しろという事である。
「今は若輩でも立派なしんばしらとなる」とは、こんなバカにしたしんばしら侮辱はない。
このとき、立派なしんばしらそのものである。
お指図では、しんばしらの理の重さは、自由しんばしら(じゅうようしんばしら)のお言葉で知らされている。
濃尾地震(のうびじしん)とは、1891年(明治24年)10月28日に濃尾平野北部で発生したマグニチュード(M)8.0の巨大地震であり、日本史上最大級の内陸地殻内地震(直下型地震)である。
明治二十四年十月八日(陰暦九月六日)夜十一時
本席御身上足の左付けぎわより腹に掛け、固まり差し込みあるに付伺
さあ/\十分刻限知らす、刻限を知らす。刻限まで何にも言わんで。
刻限を待たねばならん。さあ/\何時やら知れん。その用意をして置かねばならん。
程無う/\刻限渡るなら、何時知らさにゃならん。
暫くすると刻限(午後十二時)
さあ/\打ったで。どんな事言うやら知れんで。
さあ/\刻限々々話に知らせ置く。内へ戻ったらしんばしらに伝えくれ。
急いであった/\、思わく尋ねるか。又々の道を運び掛け。自由しんばしら、万事どういう事掛かる。
他に一つこれまで尋ねにゃならん。人間心を集め/\事情尋ねるまで、事情あって事情諭し置く。
どんなに思うたとて実々生涯諭してある。何よの事、人間心に持って尋ねるまで。それ/\一つの話事情定め替えて、一つの初め治めにゃならん。
神の言う事要らん、めんめん要らん。それ/\一つ事情治めて了う。
談示あるなら人間心に持って、尋ねるまで。思わく事情、一時々々治まりという。さしづ勝手する。
しんばしら帰ったら話せねばいかんで。さあ/\打ったで。
どんな事言うやら知れんで。さあ/\刻限々々話に知らせ置く。内へ戻ったらしんばしらに伝えくれ。
急いであった/\、思わく尋ねるか。又々の道を運び掛け。
自由しんばしら、万事どういう事掛かる。
他に一つこれまで尋ねにゃならん。人間心を集め/\事情尋ねるまで、事情あって事情諭し置く。どんなに思うたとて実々生涯諭してある。何よの事、人間心に持って尋ねるまで。
それ/\一つの話事情定め替えて、一つの初め治めにゃならん。神の言う事要らん、めんめん要らん。それ/\一つ事情治めて了う。談示あるなら人間心に持って、尋ねるまで。思わく事情、一時々々治まりという。さしづ勝手する。
しんばしら帰ったら話せねばいかんで。
上田何某が編集責任者の教祖伝だというが、しんばしらは、自由自在であると、神であると、分からぬ素人の教祖伝を、校本天理教教祖伝という。