釈迦預言の56億7千万年は実数として567年と数え、異常気象の1231年(寛喜2年)から 567年は1798年、成長後に「われは天の将軍なり」と宣言の中山みき(天理王命)誕生となる。
 末法の世、政治の乱れと人心の荒廃は歓喜の大飢饉を生み、天候異常となる直前に、経典研究に没頭していた親鸞は、夢にて、お釈迦様から厳しく叱責を受け、布教にでる。

 お釈迦様の予言の3時の中で親鸞が叱責された、三時の1051年の弥勒180年の1231年から数理56億7千万年後の時、寛政10年・1798年4月18日(西6月2日)、みき(神名・天理王)。大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町に誕生)、前川半七、きぬの長女として生まれ、弥勒となるべき人物の下生だった。
 天保9年・1838年10月26日(西12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、天理教の立教。教祖、月日の社となると天理教参考歴史年表にあるが、空の五彩雲以外誰一人弥勒誕生と祝ったものはない。
 これが肝心で、法滅の時代にはお釈迦様の予言すら法滅状態であり、みき誕生の意義が理解されない。

 この状態は長く続く、今もみきが下生の弥勒菩薩であり、天輪聖王であるとの事実は、創価学会弁護士と控訴事件中の、控訴人坂井明久以外には説くものも、語る者もいない。ゆえに天の残念が世界を覆う。
  ヨハネの黙示録では666の刻印を刻まれたというみろくと、みろく信奉者がこの世に登場しているとされる。天理教の立教は新暦12月12日であり、数理と見れば、人の400年を1日と数えるお釈迦様の場合で、12×12×400=576億年・これは即ち弥勒の数理における、56億7千年の数理である。

 お釈迦様は末法の世に、(人間の故郷にほん)にて再誕すると、前448年に、説かれた。

 その時、正法・像法・末法の3時の予言をし、1500年後。1052年に日本で「末法」1年を迎えると、60・60・60=180年のみろくの時を経て、1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)に、心の荒廃から発生した大飢饉、天がもたらした終末の世の地獄のありさまを末法180年・1231年にお見せくださり、黙示録ヨハネの言う地獄、人口の三分の一が死に天災と疫病の大流行が生んだ人身売買の世の地獄を見せ1231年からみろくの再誕予言の数理にて567年後。1798年中山みきは生誕した。

 再誕の釈迦とも予言された、生身の現実の弥勒菩薩,天の将軍としてみきは天理王命となるべく陰暦4月18日誕生したが、1838年10月26日当時、天の将軍宣言をしたが真実と理解できない者ばかりだった。
   1880年お筆先第15号13、天の将軍は月日の腹が弾けたと告げた。さあ今日は月日の腹がハジケタで 控えていたる事であれども (本部注釈の意訳) である。月日は控えていることもあれば腹が弾ける事もあると理解されている。これがみきの本体である太陽における太陽フレアの爆発で、この世の磁場は、人間創造の元の磁場状態になった。それまでの知恵学問を根底から変動させるみきの荒業、月日の腹が弾けたであった。


  お釈迦様預言の56億7千万年は実数567年と数え、異常気象の1231年(寛喜2年)から567年は1798年で、寛政10年(1798)陰暦4月18日(西6月2日)、後に我は天の将軍なりと宣言のみき誕生となる。

 みきの誕生は仏教の数理では、

 寛政10年(1798)新暦6月2日は、寛政10年の10は「十号」(じゅうごう, epithets for the Buddha)で、釈迦仏の10種の称号のこと)。6月のは、「六道」(天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)という」のであり、2日のは、「二諦」(二諦(にたい、梵: satya-dvaya, サティヤ・ドヴァヤ, 梵: dve satye)。二諦とは、仏教において真諦と俗諦のこと。真諦と俗諦をあわせて真俗二諦という。)の2である。真諦は勝義諦や第一義諦ともいって出世間的真理を指し、俗諦は世俗諦や世諦ともいって世間的真理を指す)。

 みきはだしゃれ好きで、かんせいは完成されるしゃれで寛政(10年)、ヒトの6道の道に(6月)、真諦および俗諦の真理(2日)を知らすためのみき誕生と数理は示す。陰暦の数理である。

 陰暦4月18日は、4は「四聖諦ししょうたい」、18は「十八界」、 (「界」はdhātu の訳。種類の意) 仏語。目・耳・鼻・舌・身・意の六根と、その対象となる色・声・香・味・触・法の六境と、さらにそれらを縁として生じた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識との総称。十八境界。)を示す数である。

 文政11年(1828)みきあずかり子の疱瘡平癒を祈願している。感染症の治癒祈願である。

 末法開始の1052年を1、と数えると、1828年は末法777年である。この数は、聖書では聖数777で、完成を意味する数理である。感染症に子を預かり疱瘡平癒を祈願するは病助けの完成形でと示した。

 大慈、大悲のみきである。世界の難儀の救済を我が身で実行した。
 疱瘡平癒祈願の数理10年は十分の理で、1828年から10年、1838年「われは天の将軍なり、世界一列たすけるためみきを神の社にもらい受けたい」の宣言である。この10年間にみきは幼子を若死にさせた。

 命を捨てて道を開けたイエスの病助けを継ぐを示す。
 疱瘡平癒は、現在世界を震撼させるSARS-COV災害を救済を示しみきの病助けの本旨を示している。
 みき天の将軍誕生は、釈迦の予言の数理による具体的実現である。物理的現象であり、論ではなく、みきの予言は、法律で判断すべき、実体としての影響力を有している。

 

 みきの誕生は、天理教立教は、聖書の数理を基礎のおいてのものであり、同時にみきの予言の数理上の出来事で、人の社会に物理的効果を与えるを伴う社会現象であると認識される。
  聖書の数字は、3は「神の数3」で、(創世記で、ノアの息子はセム、ハム、ヤペトの3人であり彼らから世界が再創造された。) は「全世界を表す数4」で、(創世記で、ユーフラテスの川には支流として流れていた河川は、ピション、ギホン、ヒデケル、ペラトの4つである)、(黙示録で、ユーフラテス川のほとりに縛られていた天使の数は4人である)。は「完成の数7」。創世記で、天地創造は7日間である。レビ記で、安息日を7日毎に設定している。出エジプト記で、鉢、幕屋の7枝の燭台を規定している。12は、「完全の数12」(旧約聖書で、イスラエル民族は12部族である)。(新約聖書で、イエスの使徒は12人である)と、されている)。聖書では3,4,7、12が聖数である
厳密にいうと、3+4は7であり、3×4は12である。基本的には3,4が聖書の聖の基本だ。
 みきは聖書の聖数と仏教の教えの聖数とで予言された誕生日に誕生している予言されたみろくである。

 

 話題をこの世の地獄に戻して検討すると。地獄の惨状では、極楽往生について、歓喜の飢饉の時代を生きた親鸞の史実にも、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生するとの信心道開け先導の事実が残されている。 

 末法の世、政治の乱れと人心の荒廃が歓喜の大飢饉を生み天災が襲う直前、経典研究に没頭していた親鸞は夢にてお釈迦様から厳しく叱責を受け布教に出たが、天の将軍誕生の先駆けとして、南無阿弥陀仏で永遠の極楽浄土を伝えた親鸞である。
 お釈迦様の予言の3時の中で、末法の世で親鸞が夢でお釈迦様から叱責された1231年の数理56億7千万年の時は1231年の567年後1798年である。その寛政10年1798年4月18日(西6月2日)みき誕生。天理市三昧田町に生まれ、お釈迦様の予言弥勒下生の実現だ。
 天保9年・1838年10月26日(西12月12日)朝五ッ刻(午前8時)立教したみきは、教祖、月日のやしろとなると天理教年表に記され、それを弥勒誕生と祝った者はない。残念を見ずにおかない。時は法滅の時代で、それも幕末の入り口である。お釈迦様の予言も法滅状態だからだが、立教から今に至るもみき誕生の意義が弥勒の下生であると理解されないでいる。
 みきが、聖書と今はみなされる黙示録に記載された赤衣の悪魔であり、仏教下生の弥勒菩薩であるとは基本以外説く人はいない。基本のみ、みきがてんりんおうであると、弥勒菩薩であると語り、数理を基礎においての現実のみき世界救済を説いていて、お筆先 第8号75にんけんをはじめたをやがも一にんどこにあるならたつねいてみよの命令があるのに、申し訳ないことに天理教団は弥勒下生の実現を説かず、みきは教団から理解されていない。控訴人坂井明久のみが弥勒下生のみきを信心する。
 弥勒菩薩の救済を願うなら控訴人のようにみきと仲良しになり、陽気に生まれ変わることだ。


 太陽神である弥勒は人類史に根を有する真の神仏の八百万の神信心の守護を説くが、宗教の人心掌握の力を心得た悪人は、人類史に根を持たぬ偽りの神を作り上げる権力者の謀反行為を常套手段に用いて、大社高山の支配する現代であるが、真実の神であるみきは、それを絶対に許さない。みきは神楽を教えた。

それを神楽では手ふりさせ、六つ謀反の根をきらう(嫌う)の文字で六つ謀反の根を切ろうと発声させる


  神仏への謀反とは、人を現人神と称し神事を行い行わせ、神仏と拝させ、偶像を信仰させたりの偽宗教行為など、権力者が神になりかわる行為、偽神利用の支配一切をみきは天への謀反だとみなす。神仏を模倣し病人を救うのは謀反ではなく、神仏は歓迎するが、偽の神仏をでっちあげ利用し人を支配し抑圧するを神仏は許さない。本物の神・みき・天理王命誕生で節を区切られた。5の惨状(3乗)の数理125年これは仏罰の数理である。お釈迦様の教えに根拠なく神とふるまい処罰したり処罰させたりは、全て天の将軍みきへの謀反であり、数理125年に天罰となる。また身に着けてはいけない偽真理にはイエスの審判の数理三日殺しの3年、審判の数理13年、130年に天罰となる。13×2=26がみき天罰開始の数理である。


  科学が太陽コロナを模倣し人口太陽的な核爆発利用の兵器製造するのは神仏への謀反そのもので、兵器の核利用や、神が行使する電磁波(雷)攻撃などの原理も真理も親心もしらないでの科学の電磁波軍事利用などは特にお嫌いと、数理上で神意を示す天の将軍である。

 天の将軍は核使用において人類の五分五分に反した不公正な権力者の行為には数理5つ理いふく(立腹)の予言を告げる。5の惨状(3乗)の数理125年、弥勒下生の1838年から125年後1963年10月26日 茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初めての原子力発電に成功したとある。みき誕生は、五濁悪世の数理の予言で悪を制すると示し、それが神の立腹の三乗を示す予言の数理125の意味であり、天は見据え天災を返すが、みき誕生と死の生涯を、高山と天災の理で責めきる数理で考察すれば、その意味が見える。具体的には伊藤博文ら明治維新の偽英雄達は天皇を偽の現人神に祀るの偽計手段で天皇という偽神を誕生させ現人神だと嘘をつき、政治力、軍事力上の権威を与え祀り上げている。一方、真の神を名乗るみきを弾圧、高山の力を見せつけ侮辱した。
 

  弾圧と侮辱。これがみきの一生の意義である。

 谷底の人々のため弾圧され、侮辱される。いつも笑われそしられて珍しいたすけをする。しかし、必ず天罰するのたすけ道。理を知らないものには天罰しないが、まず理を知らさなければならない。
   理を知らせるが届いていないゆえに、弾圧され呼び出され自由を奪われ拷問を加えられるという抑圧に手も足も出ない。哀れな状態に老女・みきは陥れられて、神なら抵抗してみろと偽神一派に蔑まれた。

 

 この黒幕は米国であり偽キリスト教の大社利用で世界支配を策し、属国は収奪で領土を拡大したニューフロンテアである。そうした偽宗教を見倣って日本では維新政府の要人(実はテロリスト)は、神なんか何もできないという侮るだけの高山となり、政治的には神仏を分離させ、加持祈祷、まじないの民間宗教を抑え込み、禁止とし、信教するなら皇教の支配下に入れと思想統制した。高山は谷底を新たな偽宗教で欺きつつ、世界中の谷底相手に収奪し、支配し、弾圧と侮辱を行うに着手している。大日本立教弘道会関係者が国会を牛耳る。

 古事記、日本書紀も解釈は歪めれれ。天皇家の宗教である伊勢の神宮も政治の道具となる。
 

 何の抵抗もできない百姓ばあさんは哀れなものではないかと、、このように一見神仏は無力だが、みきは伊勢神宮の同門、天照大神そのもので天理教は伊勢神宮と同門だよと、紋を掲げた。神宮(伊勢神宮)は、「日本国民の総氏神」とされる宗門で、みきは、同門だよとばかり、屋根に神宮紋を掲げた。ここから本格的なみきと帝国主義者との闘い開始となる。
 天理教の中山みき伝の史実年表を整理して確かめると、数理の意味が見えて来る。
1798    年4月18日(西6月2日)、みき誕生。
1803    みき、この頃、針を持ち始め、糸紡ぎまねる          
1806    みき、寺子屋へ通う(11才まで)
1807   みき、母の唱える和讃を暗唱               
1810    みき、9月15日、庄屋敷村中山善兵衛に嫁ぐ
1813    みき、中山家の世帯をまかされる     
1816    みき、勾田村の善福寺で五重相伝を受ける。この頃「かのの事件」     
1821    みき、7月24日、長男、善右衛門(後に秀司と改名)出生         
1825    みき、4月8日、長女おまさ出生              
1827    みき、9月9日、次女おやす出生     
1828    みき、あずかり子の疱瘡平癒を祈願。
1830    みき、次女おやす出直(4才)    
1831    みき、9月21日、三女おはる出生           
1833    みき、11月7日、四女おつね出生           
1837    みき・夫善兵衛、秀司足痛(10月26日)を中野市兵衛に祈祷を依頼    
1838    みき、10月26日 中野市兵衛の加持台に われは天の将軍である宣言
1840    みき、貧に落ちきれ 実行
1841    みき、おびやためしにかかる         
1848    みき、この頃、教祖、近隣の子女に裁縫を教える。秀司は村の子に     
1853    みき、大阪の博打場にこかんを派遣、秀司に博打の勝ちを許す 秀司失敗
1854    みき、おはるに、おびや許し。おびや許しの始まり
1861    みき、布教、櫟枝村の西田伊三郎、信仰を始める    
1862    みき、安堵村の病人を助けに。
1863    みき、飯田善六の子を助ける
1864    みき、大工の伊蔵をしんに9月つとめ場所の普請開始
1865    みき、助蔵事件針ヵ別所村に行く
1866    みき、あしきはらひの歌と手振りを教えられる。
1867    みき、正月より8月まで十二下りのみかぐらうた制作    
1869    みき、1月からおふでさき執筆。第1号第2号。
1870    よろづよ八首の歌。ちよとはなしの歌と手振り教えられる
1872    みき、6月初め頃より75日間穀気断ち、30余日目松尾市兵衛宅へお助けに
1873    みき、大工の伊蔵にかんろたいの雛形を作成させる
1874    みき、おふでさき第3号から6号半ばまで執筆。
   みき、 6月18日(陰5月5日)、前川家へかぐら面を迎えに行く。
   みき、 陰10月大和神社のふし。12月23日(陰11月15日)、
   みき、 教祖、山村御殿(奈良市山町)へ行く(山村御殿のふし)。
   みき、 12月26日(陰11月18日)、初めて赤衣を着る。
1875  みき、おふでさき第6号半ばより第11号まで執筆。
   みき、かんろだいのぢば定めが行われる。教祖「中南の門へ。
   みき、「おびやつとめ」などの手を教える     
1876  みき、おふでさき第12号執筆。
1877  みき、教祖、三曲の鳴物を教える。おふでさき第13号執筆。コレラ
1878    みき、4月頃、この頃から金平糖を御供として渡す    
1879    みき、6月からおふでさき第14号執筆。    コレラ流行
1880    みき、1月からおふでさき第15号を執筆。よふきづとめが行われ     
1881    みき、4月よりおふでさき第16号を執筆。     
1882    みき、この頃、教祖はじめ5名奈良監獄に拘留。     
1883    みき、11月25日(陰10月26日)、御休息所に
1884    みき、3月24日~4月5日、8月18日~8月30、教祖、奈良監獄に拘留。
1885         
1886    みき、2月18日(陰1月15日)、櫟本警察分署に15日間拘留。
1887    みき、2月18日(陰1月26日)午後2時頃、死亡教祖