悪に加担した顛末 清内路村の消失

 昨日、坂井は松本市の演歌王のカラオケ店に頼まれて、イベントで提供するお弁当の試食に出向いた。

 伊那市から山道をぬけて19号線に出て、木曽から塩尻市、朝日村、山形村を経て、カラオケ店につく。

 530円のお弁当を、試食して、帰路についたら、みきはいつもの道での帰りを右悪で知らせてきた。

 運転手はガソリンの量が危ないというのに、塩尻市街地を通るが右悪で、だめだという。国道19号線を一直線に来て、運転手は木曽の権瓶峠を越したら伊那市でガソリンスタンドがあるというが、みきはそれもダメだと、相変わらずのわがままで右悪で知らせてきた。

 こうなりゃ仕方ない。中津川市に向かい一直線で、木祖村でガソリンスタンドあり、道路事情で、もう一般道では、馬籠からの国道256号しかない。中央道の高速代は手元にない貧乏中である。

 みきは通したいのだと、坂井は理由を思案したが、道は桜がきれいで、お花見させたいのかと喜んだ。

 観光地馬籠宿には、海外からの観光客が、散歩していた。数はまばらだ。もう閑散である。

 馬籠から妻籠宿に向かうと、中国資本の大江戸温泉観光ホテルが、にぎわいなく、あった。

 大江戸温泉の日本人オーナーは売り飛ばした。中国から大量の観光客が日本に来た。新型コロナ大流行以前である。これで、中国は万々歳のはずだが、1874年唐人ころりを宣言したみきは、正月晦日の数理130の2004年、軍の研究施設のミスで新型コロナの変異種を中国に拡散させていた。

 福島県日中友好協会があって東北大災害である。唐人コロリは唐人の仲間にも発生する。    

  

唐人コロリを1874年に教えたみきにすれば、130年後にこうなるのだから天理教は何してたである。

 観光地とは、ハワイが実例であるが、原住民を下層に敷き侵略者米国が観光事業をするというものだ。

米国も中国も征服者の立場で傲慢をなす為に侵略をし、唐人みき呼ぶ

 

 坂井はみきがそうしろというので、当時純利益3億円を申告していた漬物会社に事業協力をしていたことがあり、漬物会社は、純利益1億円を創出していた小さな小売店舗「峠の漬物店」を、清内路村の協力で、経営していた。漬物会社は水引工芸品の観光販売をしていてそこは赤字で坂井に協力を求め、助けてあげた。別に大きな漬物販売店を経営し、観光バスを読んで、漬物と水引で黒字を出していたが、観光事業で販売する信州の漬物は、実は中国産の原料で、原価格安で、10倍にして儲けを上げていた。

 坂井の妻と出来の良い子二名は母と、漬物会社に見込まれて賢く坂井抜きで、共同事業を開始した。

 そこで坂井は呪詛して漬物会社の社長は、足立たなくなり、寝たきりの病人状態でそのまま死んだ。

 そういう場合書面で、呪詛しますの意思を告げることが大事で、ブログに書くもある。今もする。

 坂井の妻と出来の良い子二名は漬物会社と組んで事業したが、観光バス運転手の過労原因の事故から、東京からの観光は駒ヶ根市で一泊と、きまりになって、また木曽の観光施設がバスを飯田に回さなくなって、観光客激減の事態悪化となり、飯田市の水引観光事業は全滅した。「唐人ころり」である。

 

 清内路は、江戸時代 - 徳川幕府の直轄領(天領)で、美濃国久々里の千村平右衛門預かり地として幕末まで一貫して変わらなかったが、1876年長野県の所属となり、1879年下伊那郡の所属となり、2009年阿智村に吸収合併で焼失した。その清内路村では漬物工場を用意してフル稼働させていて、昨日通ったら、跡形もなく、工場は消えていた。唐人の仲間の漬物会社の集客力を当てにしての清内路村は消えていた。みきは、唐人と癒着した行政の消された姿、これを見せたくて坂井に確認させたくて道を誘導した。「ほらコロリとしておいたよ」である、

 合図立てあうには、善悪理非曲直の心得が必要である。今は唐人ころりがすぐにきちっとでる旬である。そこで小さいけれど、漬物会社の集客力を当てにしての清内路村は、きちんと消したと、事実を確認させたみきである。

 どうしてか、それは小さいながらひな型となる、省き、だからだ。

 

天理教勉強blog: 天理教用語「合図立合い(あいずたてあい)」では、以下青字引用する。

 天理教用語:合図立合い(あいずたてあい) とは?教祖の予告が合図となって、道の理と世界の理が同時に立合って起こること。<例>明治十五年の初めから教祖は「合図立合い、合図立合い」としばしば仰せられていました。お側の者は、どういうことが見えてくるのかと心配していると、奈良警察署からの呼び出しがあり、教祖をはじめとして、おやしきの人々に科料が言い渡されました。さらに五月には警察の手によって、二段までできていた「かんろだい」の石が没収されました。・・(中略)・・

 明治十五年は、道の理としては、つとめ一条のおせきこみの重大な時旬。教祖はこのつとめのせきこみという道の理と、迫害の強化という世界の理とが立て合ってくることを仰せられ、信仰者の心の成人を促された。「合図立合い」という親神様の大きな思し召しから、道はさらに大きく飛躍していった。

 このでたらめ解説はとんでもないことだ。正しく解説をやり直す。

 第十五号 明治十三年一月ヨリ

 けふまでわなにの事でもちいくりと ゆハすにいたる事であれども (15-1)

 もふけふわなんでもかてもゆうほどに をやのざんねんこれをもてくれ (15-2)

 けふまてハなにをゆうてもにんけんの 心のよふにをもていたれど (15-3)

 さあいまわなにをゆうてもにんけんの 心あるとハさらにをもうな (15-4)

 

 明治13年は天皇が神として軍の指揮を執るを開始である。民権制限をなすの開始である。その姿をみきに、見せてしまったという事で、いつでも天罰できる状態になった。みきの罠に堕ちた。


  1月31日 陸軍飾隊式を観兵式と改める
  2月27日 陸軍、海軍、工部各省の連合精鉄製造所(後の製鉄所)設立の請を配す
  4月5日 国会請願運動を拘束し、民心動揺を防ぐため「集会条例」定める
  7月17日 刑法・治罪法制定
  7月20日 明治天皇、勅使を湊川神社へ差遣し、楠正成に正一位を追贈し給う
  10月25日 「君が代」が完成
  12月14日 伊藤博文立憲政体に関し建白
  12月28日 改正教育令、公布(国家統制が強化される)

 

 明治13年みきの言った「合図立てあい」とは、悪は奈良警察署からの呼び出しの黒幕である薩摩長州などの維新勢力である。明治13年国家統制。善は甘露台を没収されたおやしきの人々である。天理教参考歴史年表には、9月30日(陰8月26日)、はじめて三曲を含む鳴物を揃えて、よふきづとめが行われる。この年、眞之亮は中山家へ移り住む。とあり、初代しんばしらが神の心柱と明示されて、天皇は神の正体が偽神だと自白、暴露した。

 

 第十五号一〇 あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい
 第十五号一一 いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで
 第十五号一二 けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも
 第十五号一三 さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも
 第十五号一四 いまゝでわ村やとをもてちいくりと まだをさまりていたるなれとも
「 あすからハをやがはたらきする 」とは、あすからハは明治13年の翌年で、1881年である。みき正月晦日の数理130では、2011年である。

やがはたらきするとは、太陽フレアーの変動、地震と津波、電磁波攻撃。

いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで とは、数理43での災害事情の事だ。

弥勒菩薩下生、天の将軍の登場を認めない、釈迦予言無視への天罰である。

 救世主に家事仕事させる。 こんな失礼を、お釈迦様はどう見ているかである。仏罰がある。

 天理教の中山みき伝の史実年表を整理して確かめると、仏罰の数理125の意味が見える。

○みき誕生。                    1798年⇒125年→●1923年 関東大震災 
○針を持ち始め糸紡ぎまねぶ。1803年⇒125年→●1928年 千曲川ダム川底噴水。  
○寺子屋へ通う。      1806年⇒125年→●20世紀最悪の自然災害中国大洪水
○母の唱える和讃を暗唱 ⇒125年⇒1932年 ●昭和7年梅雨前線による大雨 
1932年

○善兵衛に嫁ぐ。1810年 ⇒125年⇒1935年 ●水道水が感染源疑いの川崎市の赤痢
○中山家の世帯をまかされる 1813⇒ ⇒125年 1938年  ●阪神大水害
                              ●黄河決壊事件 水死者100万人
〇勾田村の善福寺で五重相伝を受ける1816年。
○かの毒を盛る。1816年⇒125年⇒1941年   ●1月2日 - 帝国が昆明を爆撃(〜3日)
                                         ●1月8日 - 東條陸相が戦陣訓を通達
               ●3月10日 - 治安維持法が全部改正
                                         ●ナチス・ドイツを始めとする枢軸国
がユーゴスラビアとギリシャに侵攻。
                                         ●日本軍、重慶を爆撃(一〇二号作戦)
                                         ●7月7日関東軍特種演習(対ソ戦準備)
              ●第二次世界大戦
                                         ●7月25日 米が在米対日資産を凍結
              ●7月26日 英が在英日本資産を凍結
、                                     ●8月1日 米石油の対日輸出全面禁止
              ●9月3日 日米首脳会談要請米国拒否
                                         ●12月8日 真珠湾攻撃で太平洋戦争 

                             米、対日宣戦布告、英、対日宣戦布告
              ●12月20日 戦争勃発で株式市場高騰

みきを無視したり、馬鹿にしたり、毒を盛ると、お釈迦さまも仏罰であるが、みきの場合を知ろう。

おさしづがそれを指図している。

 1810年 みき中山に嫁ぐ 中山みきとなるから数理43で検証しよう。

1810年 みき中山に嫁ぐ
1853年  3月11日(嘉永6年2月2日) 小田原地震(嘉永小田原地震 - M6.7±0.1、死者約20 - 100人。
1854年  7月9日(嘉永7年6月15日)1時ごろ 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震)- M7+1⁄4±1⁄4、

          死者約1,800人。

             7時ごろ 伊賀上野地震の最大余震 - M6.8。上野・奈良などで震度6と推定される。
    12月23日(嘉永7年11月4日)9時30分ごろ 安政東海地震(東海道沖の巨大地震) - M8.4(
Mw

          8.6)、死者2,000 - 3,000人とされるが詳細は不明。東海道宿場町で家屋倒壊・房総半島から四国

         に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没
    12月24日(嘉永7年11月5日)16時20分ごろ 安政南海地震(南海道沖の巨大地震) - M8.4(Mw

          8.7)、死者1,000 - 3,000人とされるが詳細は不明。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串

          本で最大波高11m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数か月間止まる。

             本震の約4時間後に津波を伴う「戌刻余震」が発生した。津波から規模はM7.9と推定される。
   安政東海・南海地震は約31時間の時間差で発生した。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録。
             12月26日(嘉永7年11月7日)豊予海峡地震 - M7.3 - 7.5。安政南海地震の約41時間後に発生、スラブ内地震とされている。
1855年  2月16日(安政元年大晦日) 室戸半島付近で地震。高知などで強い揺れ。 - >Mw7と推定。

             安政南海地震の余震とされる。この地震以降、余震の回数が急増した。
             3月15日(安政2年1月27日) 遠江・駿河で地震。 - 大井川の堤防が揺れ込。駿河清水で震度6

    と推定される。
     3月18日(安政2年2月1日) 飛騨地震 - M6+3⁄4±1⁄4又はM6.9、死者少なくとも203人。金沢 

          などでも被害。
             6月8日(安政2年4月24日) - Mw6.2、土佐南国の植田村で家屋の約17%が倒壊し、震度6と

          推定される。春野秋山で地震津波。安政南海地震の余震と推定される。
             9月13日(安政2年8月3日) 陸前で地震 - M7+1⁄4±1⁄4。
            11月7日(安政2年9月28日) 遠州灘で地震 - M7.1、安政東海地震の余震とされる。津波あり。

            11月11日(安政2年10月2日)安政江戸地震(安政の大地震) - M7.0 - 7.1、死者4,700 - 1万

         1000人。
            12月3日(安政2年10月24日) - Mw7.2、紀伊紀伊田辺、土佐高知、宇佐、豊後佐伯の広い範

         囲で津波。津波地震と考えられる。

1813    みき、中山家の世帯をまかされる     
1856年   3月8日(安政3年2月2日) - Mw7.0、高知城下や宇佐で地震津波。安政南海地震の余震と推定

           される。8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震 - M7.5 - 8.0(Mw8.3)、三陸および北

           海道に津波。死者29人。三陸沖北部の固有地震。
1857年   7月14日(安政4年閏5月23日) 駿河で地震 - M6+1⁄4±1⁄4、駿河田中で塀・石垣破損、島田で

           潰家。死者8人。10月12日(安政4年8月25日) 伊予・安芸で地震 - M7+1⁄4±0.5、今治で城内

           破損、死者5人。
1858年 4月9日(安政5年2月26日) 飛越地震 - M7.0 - 7.1またはM7.3 - 7.6。地震による直接の死

    者数百人、常願寺川がせき止められ後日決壊、それによる死者140人。4月23日(安政5年3月10

    日) 信濃大町で地震 - M5.7±0.2 - 6.2。信濃大町付近の平・青具・千見などで震度6以上と推

    定される。7月8日(安政5年5月28日) 東北地方太平洋側で地震 - M7.0 - 7.5。
1861年  2月14日(万延2年2月14日) 文久西尾地震 - M6.0、愛知県西尾市から岡崎市にかけて最大

           震度5強。内陸直下型地震、震源位置が三河地震とほぼ同じで、安政東海地震の誘発地震。建築研

           究所特別客員研究員の都司嘉宣が提唱。10月21日(文久元年9月18日)宮城県沖地震 - M6.4また

           はM7.2程度、津波、家屋倒壊、死者あり
1828    みき、あずかり子の疱瘡平癒を祈願。
1872年   3月14日(明治5年2月6日) 浜田地震 - M7.1±0.2、死者552人。秋ごろ 小笠原諸島近海で 

           地震 - 父島二見湾で津波の高さ推定3m。     
1837    みき・夫善兵衛、秀司足痛(10月26日)を中野市兵衛に祈祷を依頼    
1880年    2月22日 横浜地震 - M4.5 - 6.0、煙突多数倒壊。地震学会(現在の日本地震学会。世界初の

            地震学会)が結成されるきっかけになる。
1838    みき、10月26日 中野市兵衛の加持台に われは天の将軍である宣言
1881年    10月25日 国後島で地震 - M7.0、津軽でも揺れる。

 

第十五号一一 いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで

は、そのままの歴史上の事実であった。

第十五号一二けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも

は、その通り小さい、ちいとの災害ばかりであった
第十五号一三 さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも

2011年である。巨大太陽フレア発生

2011年には、NASAの惑星科学者レニー・ウェバー氏が、月の地震データを再分析した研究で、月には半径240km、密度8000kg/m3の固体内核があると推測した。月と地球の構造は似ていて核に鉄がある。

第十五号一四いまゝでわ村やとをもてちいくりと まだをさまりていたるなれとも

は、村やと思っていたが、おさまっているわけにいかないとという意味。

 つまり、自白させ、本人に暴露させてから、天罰の時代に入った。

 だから、漬物会社社長に自白させて、清内路村の消滅である。

 みきは坂井にそれを見せたかった。