緒論⑴ 偽の宗教思想に汚染された国会の存在は神仏天罰の対象である。

 坂井明久は宗教家で歌謡業者で天理王命(みき)に(お授け)を頂き病人助けをなし、神道を冠の神道政治連盟及び神道政治連盟国会議員懇談会の省きを女(みき)に呪詛する。
十代で天理教会本部に侵攻を仕掛けた統一教会を天理から排除しており、偽宗教排除にみきの示した神仏の予言研究を行い、今の国会は偽の宗教思想に汚染されたを告げる。

 維新の高山は明治6年には国民の非難にさらされた。征韓論で国論は二分し、その混乱は明治8年の大阪会議で、結果的には悪に悪が添いの大同団結を見る。みきの罠だ。
 大阪会議は公式には明治8年(1875年)2月11日、明治政府の要人、大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)、及び参議就任等の案件について協議した会議である。伊藤博文は多数派工作を行い、盟友井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋している。軍国思想誘導では、明治12年(1879年)9月「教育議」を上奏、教育令発布を発布させ道徳教育を持ち込んだ人物が伊藤博文で、帝国日本の土台を築く。宗教政策の中心にいて、伊藤博文を敵視した天理教祖(女・みき)を危険とみて策をめぐらした。警察権力のみきへの圧迫の理由は、大社・高山取り払いを神意と告げ、伊藤博文ら、偽宗教(大社)を政治利用する維新政府の皇教捏造を悪事と責めたからである。
 女は恐ろしい論客で策略家であった。敵ばかりか味方もだます。敵は唐人高山の、日本に神聖政治を持ち込む伊藤博文ら西洋かぶれである。省くの神意を隠して、信者には口で「和睦」と唱えさせた。そして「高山は唐人」とズバリ西洋かぶれを指弾した。
 この百姓女の説く宗教は病助けに効能ありで維新の邪魔になるものとなる。 

 1868年7月、維新政府が江戸を東京と改称。9月8日、年号を明治と改めると、女は1869年1月から和歌で、第一号一九 このさきハ上たる心たん/\と 心しづめてハぶくなるよふ 第一号二〇 このハほくむつかしよふにあるけれと だん/\神がしゆこするなり と、和歌で予言を告げた。

 女は、音声では「和睦なるよう」と唱えさせて、書いたのは「省くなる」の意ある文である。そして本意は省くである。事実、省くを実行している。が信者は見抜けない。

 先ず1869年の三日殺しの数理は1892年である。みきは山内容堂を省いている。
 ここから説明しよう。
 山内容堂は大政奉還論を妙案と考え徳川慶喜に建白し、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を上奏し徳川幕府の時代を終わらせた。将軍は天皇の命で統治していましたという「神聖政治(聖なる上による支配)思想を持ち込んで、日本国土は天皇の領土というゆがみを生み、天皇の政治利用の根拠を「天皇にお返しする」で作ってしまった大悪事でもある。

 天皇は神聖であるという神聖政治が、実は西洋かぶれが、はびこる根拠を捏造した。国家は、国民は天皇のものであるという、悪魔的な思想を提案した山内容堂である。

 三日殺しと数理130(正月晦日)は理として同じ意味を示す数理で、三日殺しをしたという事は、同じ意味のことが、正月晦日の数理130で発生するという予言でもある。
 

 1869年の正月晦日の数理は1999年であり、みきは庭野日敬を省いている。

 1935年に法華系新宗教教団の霊友会に入会し、1938年3月5日、庭野は長沼政(後の副会長、脇祖)とともに霊友会を脱退し、大日本立正交成会を創立(初代会長…村山日襄・初代副会長…石原叔太郎)した。1943年庭野と長沼がそれぞれ「開祖会長」「副会長」に就任、名実ともに庭野会長・長沼副会長体制がスタートする。同会は、1948年(昭和23年)に立正交成会、1960年(昭和35年)に立正佼成会と改称。信者が車座になって互いに悩みを語り合う活動などで順調に教勢を伸ばしたが、統一教会の日本侵攻に窓口を開けた人物で、立正佼成会の庭野日敬会長(当時)の指示で統一教会の教えを学んでいた青年部50名ほどが統一教会に転じた。立正佼成会庭野日敬の秘書役であった久保木修己はその青年の中の一人となり、1964年7月15日、日本統一教会の初代会長に就任。坂井明久が18歳の時の1968年2月22日、統一教会の合同結婚式に日本人として初めて参加。同年4月1日、国際勝共連合が設初代会長に就任。1970年9月2日、久保木は、岸信介の自筆の推薦文をしたため、韓国の朴正煕大統領と青瓦台の大統領官邸で会見。同月に開催される「世界反共連盟世界大会」への韓国の代表団派遣を依頼した。坂井明久が学生会委員、委員長として統一教会と闘っていた頃である、皆、統一教会機関誌で触れていた情報である。庭野日敬はキリスト教会に敬意を示し、日本侵攻の統一教会を新しいキリスト教と、立正佼成会青年部に学ばせたという悪人で、庭野日敬をみきが省いたのは、立正佼成会と統一教会の連携を絶ったという事であり、統一教会から立正佼成会を守ったのであり庭野日敬と岸信介との関係も断罪している。

 岸信介は毎日新聞2022/9/15 06:00(最終更新 9/15 21:02)によれば、統一教会や勝共連合の初代会長を務めた久保木修己氏も著書で「岸先生は、しばしば統一教会や勝共連合の本部に脚を運んで下さいました。先生と私たちには共有できる精神的連帯がありました」「岸先生に懇意にしていただいたことが、勝共運動を飛躍させる大きなきっかけになった」などと回想している。統一教会の日本侵攻に庭野日敬を利用した。協力した庭野日敬は唐人思想(心霊宗教による世界の統治)にかぶれた悪であり、維新の「偽の本部」「天理教会やってみようか」に深く関わるゆえのみきの省きである。
 庭野日敬は日本会議誕生に重大な役割を果たしていた。立正佼成会をキリスト教の一派に仕立てる予定の行動に出ていて、それならば統一教会をやってしまおうという若い信者のであるが、霊友会信者であったように「霊」を「心霊」を神とする思想であり、病助けが出来なくなった当時の立正佼成会の青年には、霊的救済を説く、世界心霊統一教会は魅力的であった。青年にその幻想を抱かせた庭野日敬は天罰したみきである。

 みきの数理はきちんとしていて、世界を支配する。
 1881年(明治14年10月12日)、明治天皇は国会開設の勅諭を出した。
 1881年の正月晦日の数理130は2011年、東日本大震災、大津波襲来である。
 みきは世界を支配する。国会ではおさまらん。地震と津波で天罰する。
 天理教教義上の事実で解説する。

  1891年、明治二十四年二月七日(陰暦十二月二十八日)夜二時の刻限でみきは、『これから先は神一条の道。国会では治まらん。神一条の道で治める。怖わい道があって、やれ楽しみという。』と、予言している。

 これは筆先の責めでの予言とで一段一段のだんだんであると理解する。この段々が見えないと、愚かな信者ばかり、みきに更なるご苦労をおかけするとなるが、予言の段々の数理が見えたなら、みきの胸がはかれるようになり、第一号一 よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから(1号-1)を、卒業である。怖い道があって天理教が身につく。

 国会開設の詔1881年(明治14年)10月、明治天皇が1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることを表明した。
 1881年から、五ヵ年五ヵ年と、十年を経ての天の将軍の刻限が到来である。1891年の、以下の刻限から、五年で日清戦争1896年(明治29年)が1回目として、国会は日本を戦争に踏み込ませるという、治まらない醜態で、日本が敗戦に至る道である。

  刻限
  明治二十四年二月七日(陰暦十二月二十八日)夜二時
さあ/\/\刻限を以て話し掛ける。 さあ/\どういう事話し掛けるなら、さあさあ一日の日も、よう/\の日、さあ/\明けるなら一つという。 さあ話し掛けたら、どういう事も万事話通り、いかなるも皆今一時筆に書き取る処、一日の日が移る。 五箇年々々々と五箇年の日に移る。 四方々々所々もいずれ/\五年々々、どういう事、万事何かの事話し掛けるによって、事情は一つ、人間の心の理というは更々持たぬよう。
 一年経てば一つの事情、又一年経てば一つの事情、年に取りて六十一年、お陰/\と待ち兼ねたる処、又一つには改正々々という、明治の代という、国会という。知らず/\待って、さあ楽しみの道は更にあろまい。一夜の間の事情を見よ。国会二十三年と言うた一つの事情、又お陰/\の事情、よう思やんせよ。

[ さあ話し掛けたら、どういう事も万事話通り ]

 この刻限の話は、どういう事も万世の万事で、筆先の話の通りである。
 [ いかなるも]
   いかようになるのも、どのようになっていくのも、
[皆今一時筆に書き取る処、]
   今、この瞬間お指図として筆に書き取ったところの、状態が、
[ 一日の日が移る ] ⇒、聞き違えで誤字、正しくは [ 一日の日が映る ]
 各年の状態が映る。
[ 五箇年々々々と五箇年の日に移る ]⇒、同じく聞き違えで誤字で、正しくは [ 五箇年々々々と五箇年の日に映る  一日の日が映る ]
   五箇年々々々は、5年、5年5年=10年と、5年の理に映る。
● 1895年、大日本帝国全権弁理大臣伊藤博文(内閣総理大臣)大日本帝国全権弁理大臣陸奥宗光(外務大臣)が、日清戦争(1894年-1895年)の講和条約、下関条約調印。
● 1905年、米大統領セオドア・ルーズベルトは、日本海海戦の後に外務大臣小村寿太郎(第1次桂内閣)から要請を受け、1905年6月6日に日本・ロシア両国政府に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。
[ 四方々々所々もいずれ/\五年々々、]
 世界の四方、四方、ところどころも、5年、5年、5年の理が見える。
● 1910年 韓国併合ニ関スル条約に寺内正毅・統監と李完用・総理が調印。韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」等の内容を規定した条約である。(韓国併合)。
● 1915年 5月9日 - 袁世凱政権が日本の対華21ヶ条要求を受諾。
1915年10月19日 - 日本が第一次世界大戦、戦後の権益に関する連合国側の秘密協定であるロンドン宣言に加入。 
● 1920年 大日本帝国、国際連盟へ正式加入 
● 1925年1月20日 - 日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
● 1930年4月22日 - ロンドン海軍軍縮会議終結。米英日で軍備制限条約。
[ どういう事、]
   こうした予言はどういうことか
[ 万事何かの事話し掛けるによって、事情は一つ ]
  万事とは「よろづよの世界一列見晴らせど」の事で、何かの事は「神が出て何か委細を説くならば」の助けの委細の事、話しかけるので、刻限の「事情は一つ」 は、一つ始まりの理、世界助けの始まりの事情である。
[ 人間の心の理というは更々持たぬよう。]
   だれそれがどうとか、人間が戦争したがったとかの、人間の心の理というはなにもないので、更々持たぬようにして、みきの助けの道と理解してくれ。
[ 一年経てば一つの事情、又一年経てば一つの事情、年に取りて六十一年、]
 一年経ち一つの事情、一年経ち一つの事情と年にとりて61年過ぎた。61は、数理を示すお歌の筆先3号の3625のくれあいの36+25=61、胸の掃除のときとなった。国会開設の悪事が胸を掃除するという。
[ お陰/\と待ち兼ねたる処、]
     維新のプロパガンダが「お祓いさんが降る、お祓いさんが降る」と、大騒ぎし、お 陰お陰というので、みきはお陰を待ちかねていたところであるが、
[ 又一つには改正々々という、明治の代という、国会という。]
  また維新においては、改正々々という、明治の代という、国会という。世を維新し改正し明治の代にして国会開設の政治発信を告げるので、
[ 知らず/\待って、]
   民は何も知らず、知らず、悪事とも知らず待っていて、
[ さあ楽しみの道は更にあろまい。]
 さあ、それで楽しみの道は、明治維新で更に楽しみがあるような状態ではあるまい。
[ 一夜の間の事情を見よ。] 
   一夜の間は大日本帝国での一夜である。一夜、夜の闇の世界の一夜の事情を見よ。

 それを見れば、大日本帝国日本の闇。一夜の闇の事情は、西洋かぶれの神聖政治かの宗教(天皇教)の国家統制事情であり、日本は闇の中で、敗戦した日本に、戦勝国米国は、神なる天皇の人間宣言で神聖政治の解体を図ったが、以下がその闇の事情である。
●1935 3月16日 - ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄、ドイツの再軍備。 
    4月6日 - 満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝 
    7月 - 外務省が日本の国号表記を「大日本帝国」に統一を決定
    10月3日 - イタリアがエチオピアへ侵攻開始
    10月21日 - ナチス・ドイツが国際連盟を脱退
    12月8日 大本教教祖出口王仁三郎と幹部三十余名を不敬罪・治安持法違反で

            検挙(第二次大本事件)
               関東軍支援のもと李守信軍がチャハル省に進軍
            12月16日 - 天理教本部が脱税で捜索
●1940 2月11日 - 日本神話に基づく建国2600周年。紀元2600年祝典開催
      4月1日 宗教団体法施行(二十八宗派)
      4月9日 ドイツ軍がデンマーク王国・ノルウェー王国に侵攻
      5月10日 ドイツ軍がオランダ王国・ベルギー王国・ルクセンブルク大公
         国・フランスに侵攻開始
      5月18日 - 日本軍、重慶を大空襲(重慶爆撃、 - 9月4日)
      6月5日 - ドイツ軍が対仏総攻撃を開始
      6月10日 イタリアが対英仏宣戦布告
      6月14日 ドイツ軍がパリに無血入城
      6月15日 イタリア軍がフランス領に侵攻 
           ソ連軍がリトアニアに進駐開始
              7月15日 - 満州国の新京に建国神廟が創建
              7月26日 - 閣議で基本国策要綱決定(大東亜の新秩序・国防国家)
              9月27日 - 日独伊三国同盟成立 
                              731部隊、浙江省で細菌戦を実施( - 12月)
              10月12日  大政翼賛会発会式
              11月10日  紀元二千六百年記念行事( - 11月14日)
              11月13日 - 御前会議で日華基本条約および支那事変処理要項決定
●1945   1月1日 - 米『タイム』誌が風船爆弾のモンタナ州落下を報道。
      1月18日 - 最高戦争指導会議で本土決戦体制を決定。
      3月26日  硫黄島で米軍に抗戦していた栗林中将配下の部隊が全滅
           米軍が沖縄県慶良間諸島の座間味島に上陸(沖縄戦開始)
     4月1日  米軍が沖縄本島に上陸。
     4月7日  戦艦大和が沖縄へ向かう途中、坊ノ岬沖海戦で撃沈。
     6月23日 - 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決
     8月6日午前8時15分 - 米軍が広島市へ原子爆弾投下。
     8月9日午前11時02分、米軍が長崎市へ原子爆弾投下。
     8月14日 午前11時、昭和天皇がポツダム宣言受諾の意思を表明。
          午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国側に通知。
              8月15日  天皇肉声で読み上げられた終戦詔書が敗戦の日となる
     12月15日 - GHQが神道指令を発する。(宗教団体の国家統制を廃止
[ 国会二十三年と言うた一つの事情、]
 ふでさきの責めにて「2年3年仕込もうと」とみきは、23年の数理は知らせておいてあり、筆先の通り、高山は23年かけて偽神道で国民を仕込んで、あらひと神天皇の下、国民皆兵の悪を企て、領土拡大を実行した。
   それが国会23年というた事情である。筆先1号51で内なる話題はしないと告げたうえで
「このこ共二ねん三ねんしこもふとゆうていれども神のてはなれ(1号-60)」と告げた。
維新の天皇利用は「神の手離れ」と、その結果の残念を告げているみきである。みきの賢さを心得た教理研究が大切で、敵の維新テロリストも味方の信者も欺く軍略がある。

 もともとから伊藤博文らの維新運動は、幽冥思想の平田神道、その異説を採用し死者が国を守る靖国神社建立をしていて、戦勝祈願に靖国参拝である。「神は幽冥と思うなよ」とみきはおさしづしたが、信者はみきを真実の神と信じとぃないから、死者が守護する説を否定排除しないで天理教は帝国戦争協力をした。それが洗脳された姿である。

 帝国大学創始の伊藤博文、私学創立の大隈重信、福沢諭吉かれらは天皇を神とした。日本は天皇のものとした。神・天皇の軍隊が必勝であるという洗脳に踊らされた。

 維新とは、皇教を利用しての国家転覆から発し、唐人英国、唐人米国に学びの日本「唐人化」の悪事である。


  [ お陰/\の事情、よう思やんせよ。] おさらいだが、お指図の重要部分はここから始まった。明治維新の大嘘を、よく思案せよである。

 これは維新政府に張り巡らされた薩摩の情報戦略に用心せよの意味である。

 薩摩藩は海軍に根を張っていた。お祓いさん降らした実行犯である。稿本天理教教祖伝は「 慶応三年八月頃、世間では、お祓いさんが降る、と、騒いだが、教祖は、「人間の身体に譬えて言えば、あげ下しと同じようなもの、あげ下しも念入ったら肉が下るように成る程に。神が心配。」と、仰せられた。人々は、一体何が起るのかしらと気懸りであった処、翌慶応四年正月三日から鳥羽伏見の戦が起こった。」と伝えている。
 お陰/\の事情であるが、江戸時代,お蔭年に行われた群集による伊勢神宮参拝。法則も商売繁盛も伊勢の神の「おかげ」にひっかけている。慶安3年,宝永2 年,明和8 (71) 年,文政13 (1830) 年,慶応3年の5回が特ににぎわった。1867年のお陰お陰を教祖伝は述べていて、この慶応4年のお陰には明治維新のプロパガンダがある。
 お祓いさんの札は薩摩が各戸に貼り、お祓いさんだと神意を宣伝し、名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている、戊辰戦争の第一段である。鳥羽伏見の戦いの世論形成に用いたとの説がある。宗教管理に名の出ない薩摩だが、みきには薩摩が最も危険と見えていて、省くを実行している。表向きは宗教政策当事者の弾圧、干渉だが、裏に薩摩がいて、伊藤博文がいての謀略があり、天皇教に邪魔な、排除目的の殺してしまえ目的の謀略としてのみき弾圧であると、お指図では明示している。 

教団幹部は愚かにも、天理教を神道下部組織封じ込めに出た宗教行政当事者に従った。

 みきは明治2年に筆先の責めで予言し、3625のくれあいを知らせている。 

 [ 年に取りて六十一年  ]であるが、おさらいする。筆先3号に知らされた数理3625の、36+25=61に一致する。
 これは、国会開設の詔の1881年を1として、61年を予言上示しているもので、1941年、太平洋戦争開戦、数理61の1942年「大東亜戦争と命名」は、いずれも国会のなした出来事である。
 日本は大東亜として戦ったが、国が下る結果となり、神天皇は説けなくなった。


 国会開設の詔または国会開設の勅諭は、1881年1881年(明治14年)10月12日に、明治天皇が出した詔勅であるが、数理61の1942年「大東亜戦争と命名」で帝国主義の道を目指してのものと自白で、暴露されている。
[ 又お陰/\の事情 ]のこともおさらいする。
 これは江戸末期の維新のプロパガンダの事で、みきが念が入ったら肉が下ると予言した事情の事である。神・天皇が維新に味方と偽り、煽り。天皇のおかげ、天皇のおかげと国民を洗脳し、結果国が下った。敗戦である。
 現在も皇室報道は国民の理想的な皇室として、プロパンダしていて哀れで滑稽である。みきに征伐されていく姿がさらされるだけだ。
[ 国会二十三年と言うた一つの事情 ]、これもおさらいする。国会開設事情が坂井という戦士を誕生させた。
  これは、明治政府が自由民権運動を懐柔するために明治23年国会開設したと言う、国会開始までの事情のことである。

 国民は自由民権運動に熱心だったが説く自由意思は見せかけで、「立教皇道工作」が大きく影響している。伊藤博文の天皇教の構築。大日本立教皇道会を設立した大隈重信らの意図を反映し、大本教、PL教、創価学会、生長の家、実践倫理などの帝国主義協力の宗教思想団体を育成、利用の裏皇教の構築が日本全体を宗教国家に導いている。国民総動員軍事体制確立という国会開設の真の目的はみきに見破られていた。が、天の将軍みきの道のたすけをする者は一人もいなかった。その頃の天理教団は当時の国民の姿そのままで、国会で、政治でこの世をおさめるという天皇制を尊んで為政者の皇教以外の神仏否定を全て受け入れていた状態であり、みきは、それも織り込み済みで、本席宅の住み込み人で懲戒免職された天理教布教師から、信州伊那谷に、口述の伝承にて、この世治める天の将軍と言う発想そのものを伝えさせた。三日殺しの教理とともに、この世は神の支配だと、それを生まれた時から滾々と聞かされた坂井明久は成長し、みきの軍人と育ち、知らぬ間はそのままやの状態をきちんと改められていく今がある。

 みきは知的障害ある大正天皇を誕生させて、結果として政治家の天皇利用を戒めている。これも重大な出来事である。人を神に祀り上げれば天罰である。

 偽の宗教思想に汚染された国会の存在は神仏天罰の対象であるというその前提を解説した。