天理教のブログに不実は、省いて下さるよう、女に呪詛する。      

『天理教ブログ 神の道』では、女がしんばしらに直々、親族は天理教の邪魔だと、告げたを、真逆に解説している。神の手足となって道の為世界救けの為に尽くさなければならないと定められた親族は、どうでもこうでも人々の先に立って、広くて大きな世界救けの道を拵える為に尽くさなければならないと、固く定められた親族の理があるという事やと。

明治二十四年一月二十八日夜八時半 刻限(前おさしづに基づき中山会長へ御願い致しました処、会長は前川方は中山のある限りは粗末にはせんと仰せ下されました、前川方へ行き御話伝えました。)これに対しては、

 このやしきでは親族の理では、世上救ける事が出来ん。
 苦労艱難の道を通り来て理を聞くなら、一つの道も通そう。
 限り無き処まで尽そうというは、どういう理であるか。
 中山家の続くまで救けるというは、親族の理であろう
 
刻限は、前川を掃除すると告げていた。が中山会長は掃除の態度ではなかった。しんばしらへの刻限は以下のとおりである。
 
明治二十四年二月八日(陰暦十二月晦日)夜刻限
さあ/\仕切って話する。この事しんばしらに伝え。さあ/\どういう事伝え。
親族切って切られん中、捨るに捨られん中、一戸々々の事情、世上々々の事情、親族は親族の理がある。切って切られん理がある。
親族は親族だけ。心置き無う治めてくれるよう。
鏡やしき/\、うっとしいては照らす事出来ん。言い難くかったであろう。
これだけ尽し、しんばしら切ない事情であろう。
それだけの事、運んでやってくれるがよい。

さあ/\又一つ、よう聞き分け。
来る者に来るなとは言わん。来ぬ者に来いとは言わん、というは、話の台。
見苦しい処、それから人々、二年三年の理が無くばなろうまい。
理と理と、どういうものは、どんな大きい理に成るやら知れん。世上谷底から運ぶ。
席々と運んで二年三年の理、これから運んでくれねばなろうまい。
悟りではないで。すっきりしたさしづ。
これで掃除はすっきりやで。
 
意味は単純だ。親族は親族の理とは、筆先に明示されている。

さと/\たをと/\びよさま/\ 三家の親族の全滅のことだ

を説くのは、確信犯的、みきへの謀反である。
 に、省くを呪詛する。