みき真実の神の力を行使する。1880年1月から筆先第15号を執筆
  1880年の正月晦日130は2010年である。筆先は絶対的中の予言である。予言の語り口は女の個性で、生意気で、傲慢で、魔女的で次のとおりである。
 第十五号 明治十三年一月ヨリ
 けふまでわなにの事でもちいくりと ゆハすにいたる事であれども 
(15-1)
 もふけふわなんでもかてもゆうほどに をやのざんねんこれをもてくれ (15-2)
 けふまてハなにをゆうてもにんけんの 心のよふにをもていたれど (15-3)

 とすれば、1880年一月までは言わないでいた、そのことを言う。女の残念を言う。人間でないのに人間だと馬鹿にされた残念は今日(2010年)で終わりにしたい女である
 さあいまわなにをゆうてもにんけんの 心あるとハさらにをもうな (15-4)
 とのよふな事をゆうやらしれんでな なにをゆうてもしよちしてくれ (15-5)
 このたびハどんなためしをするやらな これでしいかり心さだめよ (15-6)
 このはなしたれが事ともゆハんてな みなめゑ/\の心さだめや (15-7)
 いかほどにせつない事がありてもな をやがふんばるしよちしていよ (15-8)
 これからハをやのゆう事しいかりと しよちしてくれあんぢないぞや (15-9)

 
 の言葉は人間の言葉と思わず、何を言っても処置してくれ。で、傲慢な女である。
 1880年に試をするから、各人が精神を定めよ。つまりお前決めろである。
 切ないことがあるが、案じないで、女の言う通り処置せよ。と一方的である。
 それからもっと傲慢に、天罰を予言する。教えを聞けと、聞かねば断罪すると。

 1881年を明日として語り続ける。予言が数理43を知らしている。
 あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい (15-10)
 いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで (15-11)
 

  1880年の43年前以前、天理教立教は1838年、始めかけたは、何を始めかけたのか、1880年の43年後を見ればわかる。関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発生した。は、どうだ恐れ入ったかである。

 関東地震関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。女の残念の凄まじさである。
 あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい (15-10)
 

けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも (15-12)
さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも (15-13)


 さあけふハ月日のはらがはぢけたで は、何時のことかだが、1880年の明日は、1881年で、正月晦日の数理130は2011年と、きちんと年を教えていて、得意満面の女であるが、43の数理ときちんと調べないと、女に馬鹿にされる。おお、怖い、である。
  1880年が数理43の起点である。戻って43年以前は1838年立教なのか1837年秀司足痛なのか、1880を1と数えるのか1880年を0とするのか、研究家は、悩まされる。

 数理の数え方だが、 1798年女誕生の43年後に1841年おびやためしだから、数え方は単純で、秀司の足痛から43年が1880年である。1880年から43年は1923年関東大震災。これが正しい数え方である。そして1923年から43年は1966年である。
 
 1966年政界は黒い霧事件と呼ばれる不祥事が相次いでいた。女の警告である。

 1966年から43年は2009年で、日本の最大の政府開発援助(ODA)対象国で歴史的に親密な関係にあり、しかもLNG(液化天然ガス)貿易をはじめとしたエネルギー供給・調達面で密接な、石油や天然ガスにおける依存国インドネシアに大地震である。

 

 このインドネシア輸出国からの転落は女の仕業だ。
 いまゝでわ村やとをもてちいくりと まだをさまりていたるなれとも (15-14)
 このたびハとのよな心いるものも みさだめつけてすぐにはたらく (15-15)

 2004年スマトラ地震・津波で西側大油田構築を妨害の件も神楽はしている。

 1880年9月30日(陰8月26日)、はじめて三曲を含む鳴物を揃えて、よふきづとめが行われる。原点に戻れば、これは 日本の軍部から、政治介入を省くつとめであった。

 そこから出発して、見直せば、帝国主義国家の妨害のための女の天罰が見えてくる。
軍人勅諭。
山縣有朋の指示で西周らが起草したものであり、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つを軍人が守るべき徳目とし、軍人は政治に関与しないように明示している
政党政治に終局をもたらせた暗殺テロ、五・一五事件に代表される急進派も存在した。

軍人勅諭。これは山縣有朋の指示で西周らが起草したものであり、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つを軍人が守るべき徳目とし、軍人は政治に関与しないように明示している。みきを模倣したことで天皇の軍隊を正義にふるまわせた、女の返しである。


 この返しをなすうえでつとめられたのが、稿本天理教教祖伝逸話篇七四 神の理を立てるに記載された、おつとめである。

 明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。 

 警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、
 「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ。」

 と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。
 そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」ということになった。ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、
さあ/\鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」
 という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。山沢為造は、十二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。

 

 女は世界助けを思い、女は戦争根絶を願う

 存命のみきの戦士は、坂井明久が、神の理を立てる