第一号一九
このさきハ上たる心たん/\と
心しづめてハぶくなるよふ
みきの神楽は「省く」効果を発し、同年には西郷隆盛、 木戸孝允を省いている。天罰であると、きちんと理解する。
西郷隆盛は領土拡大目的で朝鮮出兵を企図していて、士族を集め組織化していて悪。
神楽や御供は、天罰を生む原点で、みきは弾圧した維新の政府の三傑に省くを生む。
こういう手法が世界ろくぢに均す手法だから、存命のみきは、現実で教えている。
心しづめてハぶくなるよふ これの心しづめて は、呪詛する側の自分の心である。
ハぶくなるよふ は、頂く結果である。
これが、みきの心にかなっていれば、独裁的権力者も省ける。
坂井の教理勉強は悟る、ためすで、ちゃんと安倍晋三と池田大作の呪詛でためした。
ひな型で確認しておこう。明治維新、維新の三傑とは、日本において倒幕・維新に尽力した、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人を指す。
三傑 西郷隆盛 (薩摩藩) 大久保利通(薩摩藩) 木戸孝允(長州藩)
木戸孝允の命日は1877年5月26日で、京都で病没。
西郷隆盛の命日は1877年9月24日で、鹿児島で戦没。
大久保利通の命日は1878年5月14日で、東京の紀尾井坂の変にて倒れた
薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸[2][3](京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長連合ともいう。
維新の十傑は、明治維新に尽力した志士のうち、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の特に枢要な「維新の三傑」の他、薩摩藩の小松帯刀(小松清廉)、長州藩の大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、肥前藩の江藤新平、肥後藩の横井小楠、公家の岩倉具視から成る。
10人ともに幕末から明治まで生き抜いたが、明治に入り3人が病死、7人が外因死(暗殺、刑死、敗死)により命を落としている。みきの省きと坂井は理解している。
1869 1月からおふでさき執筆。
横井小楠、1869年2月15日 - 京都で十津川郷士らに襲われ死亡。59歳没。
大村益次郎、同年9月4日 - 元長州藩士らに襲われ、12月7日死亡。45歳没。
1870 よろづよ八首の歌を加えられる。ちよとはなしの歌と手振りが教えられる
小松帯刀、1870年8月16日 - 大阪で病死。34歳没。
広沢真臣、1871年2月27日 - 東京の私邸で襲われ死亡。37歳没(実行犯等不明)。
1874 前川家へかぐら面を迎えに行く。
江藤新平、佐賀の乱を起こす。1874年4月13日、佐賀にて斬首刑。40歳没。
1876 8月17日、小坂村(田原本町)にて雨乞いを行う
前原一誠、萩の乱を起こす。- 鎮圧され、1976年12月3日、斬首刑。42歳没。
1877年 この年の初めから、三曲の鳴物を教える
木戸孝允、1877年5月26日 - 京都で病死。43歳没。
西郷隆盛、同年9月24日 - 西南戦争で敗戦し、鹿児島で自害。49歳没。
1878 この頃から金平糖を御供として渡す
大久保利通、1878年5月14日 東京清水谷で石川県士族らに襲われ死亡。47歳没。
1883 8月15日三島村で雨乞いづとめを行う。8月22日河内刑部村で雨乞いづとめ
岩倉具視(唯一の公家)、1883年7月20日 - 東京で病死。57歳没。
つまり、つとめとさづけは「省く」ための必須アイテムである。
それをわからぬ人がいた。こいそさんである。