第一号一九
このさきハ上たる心たん/\と
心しづめてハぶくなるよふ

 1877年は筆先13号執筆で、みき、この年の初めから三曲の鳴物を教えるである。
 みきの神楽は「省く」効果を発し、同年には西郷隆盛木戸孝允を省いている。天罰であると、きちんと理解する。

 西郷隆盛は領土拡大目的で朝鮮出兵を企図していて、士族を集め組織化していて悪。
 木戸孝允は憲法選定を早くから提言し中央集権化で天皇の帝国の基礎を構築した。
 
 翌年にはみき金平糖の御供(病人に与える服用物)を渡しはじめ、大久保利通1878年5月14日で、東京の紀尾井坂の変にて倒れている。
  神楽御供は、天罰を生む原点で、みきは弾圧した維新の政府の三傑省くを生む。
  こういう手法が世界ろくぢに均す手法だから、存命のみきは、現実で教えている。
 

 心しづめてハぶくなるよふ これの心しづめて は、呪詛する側の自分の心である。

 ハぶくなるよふ は、頂く結果である。

これが、みきの心にかなっていれば、独裁的権力者も省ける。
 坂井の教理勉強は悟る、ためすで、ちゃんと安倍晋三と池田大作の呪詛でためした。

 ひな型で確認しておこう。明治維新、維新の三傑とは、日本において倒幕・維新に尽力した、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人を指す。
  三傑   西郷隆盛   (薩摩藩) 大久保利通(薩摩藩)  木戸孝允(長州藩)
   木戸孝允の命日は1877年5月26日で、京都で病没。
   西郷隆盛の命日は1877年9月24日で、鹿児島で戦没。
   大久保利通の命日は1878年5月14日で、東京の紀尾井坂の変にて倒れた
  

 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸[2][3](京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長連合ともいう。

  維新の十傑は、明治維新に尽力した志士のうち、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の特に枢要な「維新の三傑」の他、薩摩藩の小松帯刀(小松清廉)、長州藩の大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、肥前藩の江藤新平、肥後藩の横井小楠、公家の岩倉具視から成る。
   10人ともに幕末から明治まで生き抜いたが、明治に入り3人が病死、7人が外因死(暗殺、刑死、敗死)により命を落としている。みきの省きと坂井は理解している。
   
   1869  1月からおふでさき執筆
横井小楠、1869年2月15日 - 京都で十津川郷士らに襲われ死亡。59歳没。
大村益次郎、同年9月4日 - 元長州藩士らに襲われ、12月7日死亡。45歳没。
 1870 よろづよ八首の歌を加えられる。ちよとはなしの歌と手振りが教えられる
小松帯刀、1870年8月16日 - 大阪で病死。34歳没。
広沢真臣、1871年2月27日 - 東京の私邸で襲われ死亡。37歳没(実行犯等不明)。
 1874  前川家へかぐら面を迎えに行く。
江藤新平、佐賀の乱を起こす。1874年4月13日、佐賀にて斬首刑。40歳没。
 1876 8月17日、小坂村(田原本町)にて雨乞いを行う
前原一誠、萩の乱を起こす。- 鎮圧され、1976年12月3日、斬首刑。42歳没。
 1877年 この年の初めから、三曲の鳴物を教える
木戸孝允、1877年5月26日 - 京都で病死。43歳没。
西郷隆盛、同年9月24日 - 西南戦争で敗戦し、鹿児島で自害。49歳没。
 1878  この頃から金平糖を御供として渡す
大久保利通、1878年5月14日 東京清水谷で石川県士族らに襲われ死亡。47歳没。
 1883 8月15日三島村で雨乞いづとめを行う。8月22日河内刑部村で雨乞いづとめ
岩倉具視(唯一の公家)、1883年7月20日 - 東京で病死。57歳没。

つまり、つとめとさづけは「省く」ための必須アイテムである。
 それをわからぬ人がいた。こいそさんである。