ほこりまみれの信仰者こーせー / 天理教note は、

原典も読まずみきを偽る。嘘つきである。
 

 ほこりまみれの信仰者こーせーの投稿を、以下に青字引用する。嘘が上手である。

 

 196.天理教では「善と悪」について、どのように教えられていますか?「続・信仰問答」#18
ほこりまみれの信仰者こーせー / 天理教note
 僕の家に眠っていた「続・信仰問答」という本は、天理教に関する疑問を、Q &Aで答える方式の本で、昭和37年に発売された本です。
 この本に出で来る質問は、約60年経った現代でも、天理教信仰者を怯ませる「エグい質問」が詰まっています。
 Q、天理教では「善と悪」についてどのように教えられていますか?
 普通よく言われている善悪は、こういうことをしてはいけないとかいうように、基準や戒律のようなものがあって、行為がそれに合うかどうかによって、善とか悪とか言っていますが、そういう意味の善悪というものは天理教にはありません。また固定した善悪に対する観念とか、どうしても人間が避けることもできない宿命的な悪というものもありません。そうしたことから、天理教には善悪の明白な観念がないとか、深刻な人間性についての洞察が欠けているなどと言う人もあるようですが、それは当たりません。
 この世は親神様の御支配・御守護を下される世界であります。親神様は自由な心を与えられた人間が作り出すことを見定め、善悪を分け、善悪ともにそれぞれ人間に返されるのであります。そこから申しますと、何が善であり何が悪であるかは、人間が決めることであると言うより、親神様が決めて下さるものであると言えると思います。人間は知らず知らずのうちにほこりを積み、なかなかそれに気付かないことが多いものです。それでは陽気ぐらしできず、かわいそうだと言う親心の上から、神が箒となって埃を払ってくださるのであります。それはつまり人間の身上や事情として表してくださるということではありますから、人間はわが身に現れてくることを見て、それを教理に照らし合わせて心で悟りとり、心を入れかえることが大切です。  では、どういう心遣いがほこりになるかというと、具体的には、自分の心遣いを反省するよすがとして、八つのほこりなどが教えられていますが、結局そのもとはどこにあるかと申しますと、親神様を知らず、身上かしものということを知らず、人間は一れつ兄弟であるということを知らないで、自分中心の勝手な心遣いをするというところに帰着します。そういう心でありますと、一時は良いように見えますが、それでは陽気ぐらしできませんからだんだん不幸になり、身上や事情に心得違いを示されるということになってきます。それゆえ人間は、一れつ兄弟のたすけ合いをし、人をたすける心になることが大切です。こういう心で通っていますと自然に陽気になり勇めます。それが善であり、その反対に陽気ぐらしできず、いずんでいるのが悪であります。明るく勇んで日々を生きていくことが善であると言えると思います。そういう生き方をするには、親神様の思召を知り、その思召に沿うようにすることが必要です。また、心得違いを見上や事情の上に知らせてくださった場合は、早く心を入れ替え、真実の心になることが大切です。真実の心とは、人を助けたいという心であり、その心が神にかようならば人間は助かります。このように人間は互い立て合い助け合いすれば、心のほこりも取れ、いんねんも変わり、陽気ぐらしもできるのであります。 またどうしてもさとりがつかず、どうにもならないと言う場合、出直しと言う事態が与えられることがあるように思いますが、それも人間が憎いから罰を与えるというのではなく、人間が可愛いから、この世は出直しさせ、また生まれ変わらせて陽気ぐらしさせてやろうと言う親心の上からのおはからいでありますから、それを暗くせまく解し、心をいずませる事は良くありません。

 天理教には「悪魔」や「地獄」と言った、悪いものを象徴する言葉がありません。

強いて言えば「ほこり」がそれに当たるかもしれませんが、「悪魔」や「地獄」と言った言葉と「ほこり」を同列に並べるには、ワードパワーが足りていないようにも思います。 ※ワードパワーとは、「悪魔」「地獄」「ほこり」と並べた時に、明かに「ほこり」の禍々しさが足りていないという事です。 善し悪しを決めるのは神様

 

 坂井が中学生のころから、承知し、検証し続けて、日々用いている原典のお言葉は、天理教を語る者の常識である。

 ほこりまみれの信仰者こーせー は、これを無視して、善し悪しを決めるのは神様

 したたかな、天理教への介入干渉である。

 

明治二十三年六月三日朝
増田甚七左の目障り願
さあ/\身上の処、右左は無いで。一寸の理は諭してある。左善、右悪という理を諭してある。どちらも身の内、難しい身上にも、軽き事情もある。

明治三十年八月二十日
本席十日程前より左耳の御障りに付願
・・・荒い道理の理を諭す。左善、右は悪。


 100%外れたことのない知らせで、荒い道理の理 そのものであるこんな明確な基準があるのに、本席お指図にあるのに、無視は悪意である。