天理教教団は、教えについて、だめの教えと説いています。

天理教勉強ブログも当然この立場ですが、世界史的な理解が出来ていない。

 天理教内内向けの、偽天理教仲間で通じる、偽の勉強です。

 騙されないように、正しい教えを説いておきます。
 

 【だめの教え】 だめとは、だめ押しの略で、元来は囲碁いごの用語。勝負を確定する局面を指すところから、総仕上げ、最終的、究極的の意味で用いられています。
 『天理教教典』には「十のものなら九まで教え、なお、明かされなかった最後だめの一点、元の親を知らして」とあるように、本教は、人間創造の元の神が付けられた陽気ぐらしへのたすけ一条の道であることが記されています。
したがって他宗の教えも、親神様がその時・所に応じて現された修理肥しゅうりこえの教えであり、敬意を払うよう教えられています。
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 そして、この説の根拠として、おさしづを示していますが、教団は誤読しています。
 「元聞き分けて貰もらいたい。何処どこ其処そこで誰だれそれという者でない。ほん何なんでもない百姓家ひゃくしょうやの者,何なんにも知らん女一人いちにん。何なんでもない者や。それだめの教おしえを説くという処ところの理を聞き分け」(おさしづ 明治21年1月8日)
 ところの理とは、磁場という磁性体として誕生の磁場の理の事です。
 おふでさき6号には、月日、いかなる神、どのよな神との表記があります。
009 このよふの月日の心しんぢつを しりたるものわさらにあるまい
010 これまでハいかなる神とゆうたとて めゑにみへんとゆうていたなり
011 このたびわとのよな神もしんぢつに あらハれだしてはなしするなり
 月日とは、月様はお釈迦様、日様は太陽神ですが、お釈迦様も太陽神も神として個別の名称で唱えられていません。転輪聖王というような神名はお持ちでなく、月様、日様は、よろづよの神とは別格な元の親神であります。
 6号11にありますように、月日様が、このたびは、どのような神も真実に現れ出して、話をするといわれています。
 天理王命の神はどのような神のうちのお一人であって、天理王命は当然ですが月日ではありません。月日の社として、月日の心で百姓女の人間の口から、だめの教えを説かれた。天理教の宗旨、おしえの旨は中山みきが天理王命であるという一点にありますが、お釈迦様の教え、旧約聖書の教え、新約聖書の教え、バラモン教の教えなどなどの言い残しを、ダメ押しされた教えが天理教であり、また、神仏の教えの行われない人の世にダメだしをされた教えでもあります。

 天理教団は、「従って他宗の教えも、親神様がその時・所に応じて現された修理肥しゅうりこえの教えであり、」と、「敬意を払うよう教えられています」と解説していますが、お釈迦様の教え、神道の教え、ヤハウエの神の教えなどは月日の教えであるというのが本質であり、「本質的に月日の教え」だと理解しないところが、ダメなのです。
 「処の理」についても天理教団は曖昧にして解釈していますが、神意に反します。
 おふでさき6号には、それが明示されています。
 6号十二月廿一日よりはなし
 055 このよふをはぢめだしたるやしきなり にんけんはじめもとのをやなり
 056 月日よりそれをみすましあまくだり なにかよろづをしらしたいから
 057 しんぢつに月日の心をもうにわ めへ/\のやしろもろた事なら
 058 それよりもぢうよぢざいにいつなりと をもうまゝなるはなしゝよもの
 社というのは神のお住まいの場所ですが、めいめいの社もある。
 月日の心はめいめいの社を貰いたい。
 つまり、イエス様モーゼ様も月日の社であって、月日がお住まいになり真理をお説きになった。

 親鸞聖人日蓮上人も、胸に月日がお住まいになって真理をお説きになったのであり、天理王命もそのお一人に過ぎない。
 教典が引用していますお筆先の、理の責めは、
 いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や  一二 67
 しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている 一二 68
 をやである中山みきにも、子である一列人間にも同様にあてはまる理の責めとなっておりますから、教祖のみが月日の社であるという理の狭さには無理があります。
 ただ、ぢばというところの理が、人間の故郷の理が、唯一である天理教の証拠、証明です。天理教の宗旨は「天理王命が中山みきである」。この一点に尽きています。
 しかし二代真柱は神殿において「親神様」「教祖様」「御霊様」の3殿を教会には用意させています。 三つを拝礼せよという教義は天理王命の教えだから、それは神の理を形で分けてのことです。
 「親神様」=月日様、「おやさま」=天理王命様、「御霊様」=それぞれの神の社の方々と、目に見えて分かれていて、いずれにも拝をさせています。
 天理王命とは「世界一れつをたすけるために天降つた」月日様の社のことで、世界一列をたすけるために天下ったのは月日様です。
 天理教の宗旨は、具体的には、「月日の社として中山みきが天理王命となり教えた世界一列たすけ」です。

さあ/\ろっくの地にする
 【明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後】天理王命は明治20年2月18日に、肉体的には死亡した。
 4月18日誕生で2月18日死亡、18日 6・6・6で みろくの理である。
 ろっくの地にするは「みろくのじにする」の理の意味である。

 さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。
【明治二十年二月十七日(陰暦正月二十五日)夜】
 月日の社である中山みきの扉を開いて「じをならそうか」、扉を閉まりて「じをならそうか」と音で言えば「じをならそうか」と月日は問うている。音で言えば「じをならそうか」は、「時代を平定する」「時を均す」ともなる。
 人間は扉開いてと願い、「さあさあろっくのじにする」と月日は応じた。
 弥勒の時にする、弥勒の地にする、ろっくの地にするは「みろくのじにする」の理の意味である。「弥勒の時代到来という事」である。
 天理教のたすけとは、不老であり、病まず死なずに弱りなき世にである。
 天理教典に引用されたお筆先はそれを示している。
 しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ   三 99
 
このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ      三 100
  そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ  四 37
  またさきハねんけんたちた事ならば としをよるめハさらにないぞや 四 38

 甘露を受ける台を甘露台と呼び、天理教団は、石、または木の台を説いているが、甘露台とは人間であって、木でも石でもない。木製甘露台、石製甘露台、それはしながたの台であって、天の与えである甘露は、中山みきに授けられ、中山みき、すなわち天理王命からめいめいに渡される。めいめいは、例えば中山みきであり、中山みき(天理王命)が甘露台であるということは、お筆先のそこかしこに書かれている。
 たとえば、「しんぢつの心月日がみさだめて 天よりわたすあたゑなるのわ (10-1)」の筆先10号には「このたいをどふゆう事にをもうかな」のあとに、「これにいほんのをやであるぞや (10-22)」と明記されている。
 「をや」とはおやさま、天理王命のことである。

 

 【釈迦入滅の56億7千万年後に救世主(弥勒菩薩)が現れ衆生を救済する予言。】があります。仏に救われる=弥勒(ミロク)の世と言う概念で、数理で示されています。
 数字で三・六・九、や 五・六・七 なのです。666・18の数理。
5・6・7で18はミロクの数理です。
 56億7千万と言う数字は、弥勒出現時の人類の人口の数と言われます。
 元の理で言う9億99999年はろっく。その子数は9億99999人です。
子数と子の成人年齢は一致しているというのが天理の基本です。
 子数が56億7千万人とは、1998年には公式カウントでおよそ60億人の人口ですから予言のときは1997年には到来していることになります。
 1887年中山みき死亡。
 扉を開いて後99年たって1987年には、世界人口が50億人に到達したと推計される1987年7月11日を記念して、国連人口基金ではこの日を「世界人口デー」と1989年に制定しています。

 

 みきの定命の予言からはもともとは25年を縮めていない1912年が基準です。
 それなら後99年たっては、2012年となりますが、実際は25年縮めた。
 扉を開いて後99年たっての1987年には、世界人口が50億人に到達したと推計される1987年7月11日を記念して、国連人口基金ではこの日を「世界人口デー」と1989年に制定しています。宿しこまれた子数というなら、1987年、1988年頃には弥勒再臨の予言の人口数に到達していたでしょう。「九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、」と天理教の元の理は99を示す。それがきちんと見えますよね。
 

 釈迦は月様であった。

 イエスは、つきよみ命です。

 キリスト教の聖書とされる黙示録に みろく について語られている。
 それは獣の数字として語られている。
 獣の数字(けもののすうじ)は、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に記述されている。ヨハネはイエスと夢で会話していて、偽キリスト教の預言者である。
 以下に引用すると、「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(13章18節)
 数字は人間を指しているとあり、666は、きちんとみろくの名を示している。

 ヨハネの黙示録とはイエス直々の言葉ではない。ローマ教会が採択しているイエスの霊言であり、原始キリスト教の教えと反する書である。偽キリスト教とみなす。
 釈尊の予言の弥勒は、異端の偽キリストのみろくにおいては、獣である
 異端の書の文言では https://www.wordproject.org/bibles/jp/66/13.htm
 1、それには角が十本、頭が七つあり、
  それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。
十の角は十の柱、それぞれが動物の名を有している。神名がついている。

 2、龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた
 龍とは神名は国常立命、月さま、即ちお釈迦様であり、元の理において、寄せて使った生物(シャチなど)に、守護の理と神名を与えている。
 偽キリスト教にとれば、十全の神は 敵ということになる。黙示録は霊夢においてキリストから告げられたことを記してあるという。偽書で、黙示録・聖書では、天理教の十全の神は龍に従うローマ教会の敵ということになる。
 それも圧倒的な威力を有するという。
https://www.wordproject.org/bibles/jp/66/13.htm 
 4 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、
  さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。
 だれが、これと戦うことができようか

 11 わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。
  それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った

 12 そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、
  地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた

 13 また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえし

  た
 異端の聖書にも、「傷の癒し」と「天火 火の雨」という内容がある。
 それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。 とあるが、子羊とは主イエスキリストである。正しい聖書に、キリストは神の右に着かれたとあります。その神とは国常立命で天の月さま、お姿は。その右には月読命さまで、イエス様です。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、子羊とはイエスきりストであり、クロアチア・ポレッチのエウフラシウス聖堂にある、光背と十字架が書き込まれた「神の子羊」。七つの封印が付された本の上に横たわる「神の子羊」を刺繍した聖杯布。「神の子羊」を象ったモラビア兄弟団の紋章。軍旗と聖杯を抱えた子羊
ヤン・ファン・エイクによるヘントの祭壇画の一部。天使に囲まれた、胸から血を流す神秘的な羊を人々が礼拝している。ケンタッキー州ルイビルの聖母被昇天大聖堂の祭壇前面に飾られた真鍮製の「神の子羊」。神の子羊(神の小羊、かみのこひつじ)は、イエス・キリストのことを指す表現のひとつ。と、される。
 龍は、頭七つ、右にイエス(実は月読命)を従えて頭八つは、道具神八柱の理である。

 キリストの十字架を天理王命、中山みきに見せて、これは何かとたずねてことがあった。天理王命は「完成の意義や」とお答えになった。
 十字架とは、神の教えの完成を示すものと、天理教の基本である。
 重ねて確認するが、黙示録とはキリスト本人の言葉ではない。
 おふでさきに、第十四号 明治十貳年六月ヨリ
 どのよふなゆめをみるのも月日なり なにをゆうのもみな月日やで (14-1)
との、理の責めがあるが、黙示録はキリストの夢を見た、その夢の記録である。
夢を見たのはヨハネで、その内容は偽キリストである。教会信仰擁護の夢とも解されるが、ローマ教会はイエスの教えではない黙示録を聖典に採用している。醜悪である。
 月日は、異端に夢を見せて、みろくの数理のあるを西洋の、キリストの側の信者に、まことを語っている。

 例えば仏教の数理的理解から黙示録を読むなら理解は容易で、数理上のみろくを偽キリストに語らせている例があり、弥勒の下生には576億との説があるを踏まえればそれが見える。
 弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するということ。12×12が14万4千で、400倍は57億6千でこれはみろくの数理であると心得れば、聖書にて、第 14 章に、数理上の弥勒を、夢に語らせているとわかる。
 月日が、教会信仰をするヨハネに、夢を見せて、ある意味でのまことを語らせた。
 天理教は 百姓の女天理王命の神名を宗旨とし、月さま(仏陀)、日さま(太陽神)の元を教える、イエスの40日の試練、そして宮清めの実践があって、それを踏まえていて、だからだめの教えであるを学び

 天理教校てんりきょうこう)は、天理教知識人を養成する教育機関で、親神の教え「道に学問いらん」に反している。天理教に関する高度な専門知識を身につけられる国内屈指の機関であるとして定評があり、天理大学を卒業して教人の資格を得た宗教家の卵が学ぶ実質的な大学院としての課程(2-4年)である。専修科は高等学校卒業者を対象にしていた。専修科に通う学生は信者詰所から通学した。天理教校高等学校の卒業生も多く学んだ。と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は告げている。

 天理教勉強ブログがイエス様を理解できないのは、狭い天理教の中で、病気助けもできない、しないの偽勉強の弊害で、恥を知るなら、聖書を読め。イエスを拝せである。