甘露とは、である。

◎日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 甘露かんろ
 古代に、不老不死になるとされた神の飲食物。
 『老子』によると、中国では天下太平のときに天より降るという。
 サンスクリット語アムリタamta(不死の意)の漢訳で、インドでは飢渇をいやし不死を得る天人の食物をいう。
 ベーダではソーマ酒をさす。
 仏教では、須弥山(しゅみせん)頂上にある三十三天の不死の霊液であり、
また仏の教法や涅槃(ねはん)をもいう。
 なお、ギリシア神話のアンブロシアambrosiaも不死の意で、不老不死になるという神の食物である。

 
 天理教団は、甘露台」(かんろだい)とは、「天の与えたる直食(ぢきもつ)の甘露を受ける台」であり、その「ぢきもつ」を頂くと、いつも十八才の心で、病まず弱らずの無病息災のお陰と百十五才定命の自由自在のめずらしい守護を頂けると、甘露台論を説いていますが、天理教の基本と少し違います。
 九つの教えまででは、月日はどう説いていたでしょうか。
http://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/be/106.htm
 三井寺、お寺様の仏教の説明に甘露は登場します。
お釈迦様はシュッドーダナ(浄飯:じょうぼん)王を父とし、マーヤ(摩耶:まや)を母として誕生されました。
 マーヤは出産が近づいたので隣国の実家に戻って出産しようとしたのですが、
途中のルンビニー園で産気を催し、釈尊を出産されたと言われております。
生まれるや7歩歩んで、右手を挙げて「天上天下唯我独尊」と獅子吼されたその時、
天からは甘露が降り注ぎ、蓮の花びらが舞い、妙なる音楽が流れました。
 三井寺におきましても4月8日、花御堂(はなみどう)を金堂内、弥勒菩薩御本尊御厨子前に安置し、
長吏猊下を御導師にお迎えして一山僧侶出仕により、 15センチほどの金銅誕生仏に甘茶を潅いで釈尊の誕生をお祝いいたします。
 お釈迦様誕生には甘露が降り注ぎました。4月8日でした。
 お釈迦様を祝福するものが甘露。月様、国床立命様をしっかりと信心することが甘露の道ということです。
天理教の基本は、一柱目は目、月様、国常立命様のお心にそうことです。まず水の理です。水と神とは同じこと 心の汚れを洗いきる。天理王のダメだしです。
 その「ぢきもつ」を頂くとと教典では言いますが、汚れていては受け取れない。
 ほしいという心の埃を掃除して、水で洗って、それでいただく資格ができる。
 ぢきもつとは「甘露」です。甘露を受ける台で甘露台です。
 汚れは「ほしい」の心。
  ぢきもつは甘露台がいただくというのは、お筆先と、一分八間のずれがあります。
  ぢきもつは天理王命がいただくのです。
 それを、おわけくださるのが中山みき、紫と赤の衣装の女、それが、お筆先に書かれてある。

  にほんにハはしらをたてた事ならば やまずしなすによハりなきよに(10-11)
 にほんにおいては、柱を立てた事ならば 病まず死なずに弱りなき世になる。と、お筆先にあります。
 やまとはえらい豊年となり、
 にち/\にはやくつとめをせきこめよ いかなるなんもみなのがれるで (10-19)
 とのよふなむつかしくなるやまいでも つとめ一ぢよてみなたすかるで (10-20)
 「つとめいちぢょ」⇒これをつとめ一条 と、読み替えるのは応法の解釈で、信仰的理解という事になりますが、「ぢょ」は正しくは「如」あるいは「序」です。
  つとめでもどふゆうつとめするならば かんろふだいのつとめいちゞよ (10-21)
 かんろふだいも「甘露台」と文字あては信仰的解釈の応法の解釈です。
「甘露」「ふ」「だい」で、「普及の普」「配布の布」が「ふ」の意味です。
 つとめでもどういうつとめをするのかというと、甘露を普及し配布する台の、大の、つとめの一始まり、一のごとしであると読みます。
 「台は人間の建造物であるので濁点がついてだい」かんろふだいと書きます。
  このたいをどふゆう事にをもうかな これにいほんのをやであるぞや (10-22)
澄み切った甘露体は、中山みき天理王命です。おやさま、中山みきです。

天理教の基本は、中山みきが天理王命であり、ぢばにて、天よりの与えをうけとり世界一列に普及する一であるという一点である。
 その天の与えとは、釈尊誕生時に降り注いだ、「甘露」である。
甘露の台となるお方、中山みきのご神体は、世界たすけに扉を開かれていて、
この与えを、甘露をお分けいただくことで、人の世は不老長寿の世となる。
これが天理教の基本となります。
 しんぢつの心月日がみさだめて 天よりわたすあたゑなるのわ (10-1)
 おやさまのお心を見定めになって。。です。天の与えです。
どのよふなはなしきいてもさきいより これわ月日のはなしなるのや(10-8)
 これまでに十のものなら九つまで教えた月日でした。
  これからハにほんのものハたん/\と 月日ひきたてこれをみていよ (10-9)

  なにもかもどのよな事もみなをしへ しらん事をハないよふにする (10-10) 

  にほんにハはしらをたてた事ならば やまずしなすによハりなきよに(10-11)
 今まで建てられた人間の作った甘露台とは、「しながた」品物のモデルで、おもちゃのようなものです。
 天理王命の心を見澄まされて、月日は、かんろふたいにと定めました。
 中山みきは甘露体であるは、天理教の基本です。天理王命は月日親神を説き、十全の守護の理をもって陽気とするが、仏教では極楽を説くとして、それは甘露世界である。
そこで釈迦の誕生は甘露の永遠の生命に祝福されてのものだった。
 しかし釈迦は永遠かと疑う信仰者は疑う心を制しきれず、甘露とは生物的な寿命薬という意味の甘露を否定してしまう。
 釈迦は真理として不滅だというまったく駄目な解釈を仏教団は、大多数の仏教徒に与えてしまった。人間の不老不死を否定した大間違い。
 そこで天理教は蔓延した不老不死否定の偽説にダメだしすべく立教されている。陽気暮らしは甘露台にて到来すると、究極を教えた。

 キリスト教では聖書には、イエスの宣教開始の第一声が「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書『口語訳聖書』)であり、また「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書『口語訳聖書』)と記録されている。
 神が支配する国となるを聖書は説いている。キリストは神の国が来ることを予言し、神の国の到来を福音として告げた生涯であった。
 その神の国は、地上の現実の社会のことであったが、キリスト教信仰者の組織は天国とは死して後にある世界として説き、生きてある世界の姿とは説かないように解釈を曲げた。ダメな姿である。
神が支配する国はおふでさきに、現実世界であるとのダメだしがある。
 このせかいなにかよろづを一れつに 月日しはいをするとをもゑよ  七 11 
 支配するのは王であり、月日の社である天理王・中山みき。
 支配する天理王命の教えが天理教である。
 
 釈迦は、「信仰を捨てよ、甘露の門は開かれた」と注げている。
釈迦は初転法輪において中道、四諦と八正道を教えたとされるが、釈迦は振興を捨てよと、甘露にいたる道においての根源を諭されている。
 真言宗法楽寺ページより経文を引用する。
骨相大意 原文
 山河大地草木叢林みな法身常住なり。
 しかあるに一切衆生われにある宝蔵みづからしらず。
 無量劫来苦海に沈淪するを知見し給ひ。大悲方便をもて救抜済度あるなかに。一切衆生こころつねに邪曲なれば。三昧の筒を設ケて直途直行を教たまふ。
 これに二甘露門あり。謂ユる数息不浄なり。なかに就て骨相尤親し。
 はじめに無常を見る。つぎに空を見る。
 大論ニ云ク。無常は空の初門。空は大乗の初門なりと。
 また自身を観じて一々我々所なきをしる。
 はじめて平等衆和合の名義にかなふ。
 ・・・・
  釈迦は甘露への2門に「無常」の門と「空」の門を諭されている。
  無常は時であり空は空間であることは天理にいう地と天である。

甘露を頂くという事は、悪しき払いのおつとめの手、振りのように、胸前で頂きます。
若返りのと限定して、甘露はセントロン。
これは脳にある。あるのだから、脳に働いて頂いて、セントロン神経なるものが、若返り物質を出し、それを頂きたいというのが、あしきはらいのおつとめです。

禅の教えは「善なる心を引き出すにより禅宗という」(天理教の教えです)
中山みきは後ろ手合掌をして見せたお方で、禅の作法は心得ておられた。
善なる心を引き出すとは、それは「悪しきをはらうてたすけたまえ」の理そのもの。
おやさまは、この道は生きた禅やでと教えられた。
そして、座禅を組んで得られる瞑想の状態を、そのまま生活で行えと言うのが
天理教の基本の教えですから、若返りの妙薬は「悪しき払いのつとめ」。
 いずれもが甘露の門善ということになります。
 しかし、宗教は、信仰は、信仰組織は、善なる心をひきだすには邪魔です。
 雑念が入ります。信者に雑念を植え付けます。
 天理教会のおつとめも、呼吸法の月日の理を思いもせずなされていては、お釈迦さまへの恩知らずです。
「南無 天理王命」、南無に、お釈迦様への感謝と、弥勒菩薩、中山みきへの祈念が無ければ、効能の無いただの儀式で、口先の追従のおつとめは、天の怒りを買うから、セントロン神経は働かない。

「南無」の発音時には、念を込めてこその、弥勒菩薩信仰です。最初期の仏典には明白に「信仰を捨てよ」というブッダの言葉が残されている。
 神仏は最初から真理を語り、論をだんだんと進歩させることはしない。「信仰を捨てよ、甘露の門は開かれた」と注げているのは、最高の極意であるからだ。
 「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。おのが信仰を捨てよ。
 梵天よ、人々を害するであろうかと思って、わたくしはいみじくも絶妙な る真理を人々には説かなかったのだ」。

 信仰を捨てよは、いみじくも絶妙なる真理。
 これを耳で聞きとったままに、聞けば、信仰を捨てて甘露の門は開く。
 解釈は無用である。信仰をすてよ、の言葉のまま聞くことだ。

 お悟りください。