聖書の場合について、みき誕生を語る。

キリスト教の聖書とされる黙示録に みろく について語られている。

それは獣の数字として語られている。
獣の数字(けもののすうじ)は、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に記述されている。
 以下に引用すると、「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(13章18節)
 数字は人間を指しているとあり、666は、きちんとみろくの名を示している。

 ヨハネの黙示録とはイエス直々の言葉ではない。ローマ教会が採択しているイエスの霊言であり、原始キリスト教の教えとは反する書である。異端のキリストと基本的にみなす。
 釈尊の予言の弥勒は、異端のキリストのみろくにおいては、獣である。
異端の書の文言では https://www.wordproject.org/bibles/jp/66/13.htm
 1、それには角が十本、頭が七つあり、
  それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。
十の角は十の柱、それぞれが動物の名を有している。神名がついている。
 2、龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。
龍とは神名は国常立命、月さま、即ちお釈迦様であり、元の理において、寄せて使った生物(シャチなど)に、守護の理と神名を与えている。
 異端のキリスト教には、十全の神は 敵ということになる。

黙示録は霊夢においてキリストから告げられたことを記してあるという。
異端の聖書では、十全の神はローマ教会の敵ということになる。
 それも圧倒的な威力を有するという。
https://www.wordproject.org/bibles/jp/66/13.htm 
 4 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、
  さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。
 だれが、これと戦うことができようか」。
 11 わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。
  それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。
 12 そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、
  地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。
 13 また、大いなるしるしを行って、
  人々の前で火を天から地に降らせることさえした。

異端の聖書は十全の神の威力は「傷の癒し」と「天火 火の雨」という。
おふでさきの内容にきちんと一致している。

それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。 とあるが、子羊とは主イエスきりストであり、
聖書にキリストは神の右に着かれたとあります。
神とはくにとこたちで月さま、お姿は龍。その右には月読命さまで、イエス様です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、子羊とはイエスきりストであり、
クロアチア・ポレッチのエウフラシウス聖堂にある、光背と十字架が書き込まれた「神の子羊」。
七つの封印が付された本の上に横たわる「神の子羊」を刺繍した聖杯布。
「神の子羊」を象ったモラビア兄弟団の紋章。
軍旗と聖杯を抱えた子羊
ヤン・ファン・エイクによるヘントの祭壇画の一部。天使に囲まれた、胸から血を流す神秘的な羊を人々が礼拝している。
ケンタッキー州ルイビルの聖母被昇天大聖堂の祭壇前面に飾られた真鍮製の「神の子羊」。

神の子羊(神の小羊、かみのこひつじ)は、イエス・キリストのことを指す表現のひとつ。
と、される。

頭が七つあり、にイエス(実は月読命)を加えて、頭八つは、道具神八柱の理である。
 

 

確認のため
第14章を引用しよう。
1 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
2 またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
3 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
 「4つの生物、14万4千人は仏教世界を示している。」とわかる。
 釈迦の存命中の正法の時代の仏教徒は、肉欲妻帯を禁じられていた。

4 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
 「かれらはが正法の仏教徒を示し仏教世界そのものを指している。」こともわかる。

 黙示録はイエス本人は沈黙していて黙示であるが、教団信仰のヨハネは教団信仰擁護の幻想で、みろくの数理を(意味も知らず)語らされ、子羊イエスの本旨を実は意味も知らず、語らされている。
 沈黙のイエスも、二本の角の子羊として獣の側に登場しイエスもみろく出現の側にアルトの予言をなしていて、これが天理の怖さである。
どんなこともみな教えてきて、そのいい残り、だめを出すのが、天理教であるとの事実を黙示録はきちんと示している。

 

 ヨハネの黙示録 12章 には、太陽神と天理王命、数理126が告げられています。
 第十四号 明治十貳年六月ヨリ 12年6月は数理126です。
  どのよふなゆめをみるのも月日なり 
 
 126の数理とは、正月26日を待つという数理で、125(5の3乗) そののちの →126 です。
  太陽神の祭典日 25日(クリスマス)は25、次は26日。
 正月26日を待つという、これも、黙示録にて、これまでに教えてあったことということです。
 黙示録解釈ももまただめだしされて、だめの教えが天理教ということをきちんと示しています。
  
 部分引用しますと、
 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。

 この鉄の杖による、諸国の統治から、男の子がイエス・キリストであると分かります。

 その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
  主は十字架につけられ、三日目によみがえられ、そして天に昇られました。神のみもと、その御座に引き上げられました。
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

神のみもととは天理天体図にいうくにとこたちの右側、
天に昇り、そこに座すのは、偽でない聖書イエスの言葉のままです。
 女とは太陽神(太陽を着た女)で、1260日とは、天理王が神となる刻限を示しています。

 12 1 また、巨大なしるしが天に現われた。
   ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、
   頭には十二の星の冠をかぶっていた。
 太陽神と仏陀は、天理王は黙示録では、敵側ということです。
 天理王命が言う、口でも言わん 筆先の責め とは、黙示録そのものの状態がその一例です。
 ヨハネの黙示録には、月さま、日さまのこともですが、偽キリストの信仰組織の敵である天理王命についての予言があります。
 第17章は7の数理が満ちています。7は大食天命さまです。
 引用しながら解説します。17章です。
「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。」 「地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。
 天理王は地に住む人々に「ぶどう酒」を与えて世界は丸いを示します。
「荒野へ・・わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た」「その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。」
 7つの頭はイエスを加えると8つになります。天理王は八柱の神を道具とします。
「この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、」
 紫は仏教で言う最高の法位の色、赤は天理王の言う月日の社の衣の色。
 天理教の教えは「金銀財宝つかみどり」の教え。
 男女一の道具は地と天とをかたどりての交合の道具。
 天理教の神を批判的に見れば、淫し邪教、黙示録はその立場です。
 
「その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、」
 天理王命の奥義は「一つの名」。「名称一つ」。は神の理です。

「「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。 」
 バビロンとは、アッカド語で「神の門」を意味するバーブ・イリ(ム)(𒆍𒀭𒊏𒆠、Bāb-ili(m)[1])に由来する言葉です。

 つまり神の門が、中山みきだとヨハネ黙示録は敵対関係において、語っているのです。

 これにもダメだしして、紫と赤い衣の大地の母について、説き明かしているのが天理教。
これが、天理教の基本です。
「神の門」、同じ意味の言葉に「甘露の門」があります。お釈迦様です。

 ヨハネは信仰組織の教会の権威争いに腐心していて7つの教会の問題として、イエスキリストの幻を見て黙示録を記載しましたが、
ヨハネには教会が神の門であり、人間の男女の交合やぶどうの如き丸い心のつながりのワインに酔いしれることは姦淫であって、教会の闘うべき相手。

しかし女には奥義があるとイエスの幻は教えられた。
「七つの頭と十の角のある獣の奥義」、つまり八方八社と十全の神の守護の理という奥義があると、もう告げられていて、中山みきはそのだめ押しに、天理教を立教した。これが、天理教のだめの教えの基本です。
  天理王命は月日親神を説き、十全の守護の理をもって陽気とするが、
ヨハネ黙示録は、月さま、日さまの不在を理想としそれがイエスの教えだとの虚偽を告げていて、「都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。」と、教会信仰を賛美している。
 ヨハネの黙示録で説く都には、月日は不在である。 教会信仰の暗闇が見えます。

 教会信仰の代表的人物ヨハネに月日は幻を見せて、光り輝く教会信仰の都の成立を予言しています。
 それは釈尊の教え、太陽神の教えの否定であり、666の刻印を押された、つまり弥勒を信じる者への、
キリスト教会信仰の宣戦布告ともなっています。同時に正しいイエスへの謀反ともなっています。

 教会信仰をすることは神の門の否定である。陽気暮らしの否定である。
 それを人の幸福の理想だと偽キリストの幻で語らせて、7,7,7の数理で偽キリストが勝利という幻想は、
7,7,7の21回のおつとめで人は助かるという天理王命のだめの教えで、きっちりと、777の数理にダメだしです。
「それまでの神の教え」(これも月日が教え来た)に、だめを詰めだめを出している実際こそ、天理教の基本です。
 

 ヨハネの黙示録では、月さま、日さま、天理王命の方々を、その味方の人々を「みろく」の刻印の有無でヨハネの教会信仰の敵として告げています。
引用しましょう。
「また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、
すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、
この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。
この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。
その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。 」
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 お釈迦様は月さまで、弥勒菩薩はお釈迦様の再誕の意味を持ちますから、弥勒の名もつけても変ではない。
太陽神は日さまで、天輪とはお日さまで、転輪聖王はみろくですから、まさにその名で呼ばれる。
天理王はみろくの名とは、転輪王はてんりおうとみなせば、みろくの名ですが、予言であるから、
例えば1000年後の話でないと予言にならない・・・
 「その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。」
それが中山みきであることを、歴史・月日の年月が後に示すことになる。
 これも月日が、予め教えた予言という事で、実に天理教はダメの教えです。

 天理王命と称するは、一つの宗旨(しゅうし)である。天理王命と 元一つ称するは、天の月日である。元一つ始めるは 女一人である。元よく聞いてくれ。
〔おさしづ 明治21.7.31〕
元一つとは「月日」(二つ一つが天の理)で、元一つを月日の社・天理王命と称するのは天の月日であり、
その元一つ(この世の元は一つを開始する)は、(これまでの神は山々あって拝み・礼拝し・祈祷し・祈念したが)元は一つで、点の月日。
その元を開始するのは仏典には弥勒菩薩と言われている女、
その元を開始するのは異端側の聖書には荒野にて1260年を待つ女、異端が獣の王の仲間という女、女一人である。
その女一人は中山みき。食の生産に携わる百姓の女が、元一つを説き、一に百姓助けたい。これこそ天理教の基本です。
 

 666の刻印を刻まれたというみろくとみろくの信奉者は、人の400年を1日と数えるお釈迦様の、12×12×400=576億年・すなわちミロクの数理において、順序良く、56憶7千年、567の数理で、
お釈迦様は末法の世に、(人間の故郷にほん)にて再誕すると、前448年に、説かれた。
その時、正法・像法・末法の3時の予言をし、1500年後。1052年ににほんでは「末法」1年を迎えると、
60・60・60=180年のみろくの時を経て、
1230年(寛喜2年)から1231年(寛喜3年)に発生した大飢饉がもたらした終末の世の地獄のありさまを
末法180年・1231年お見せくださり、人工の三分の一が死に天災と疫病の大流行とが生んだ人身売買の世の地獄を見せ、
1231年からみろくの再誕予言の数理にて、567年。1798年
中山みきは、生誕した。再誕の釈迦、現実の弥勒菩薩である中山みきは、天理王命となるべく陰暦4月18日誕生した。
天理教の基本である。