前回の訂正と、『光る君へ』第16回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

前回書いたことの訂正をします。

前回第15話で道長と伊周が弓比べをする場面があって、私は以下の通りに書きました。

 

道長と道隆一族との対立は目に見える形で浮かび上がってきた。弓比べを挑まれた道長が丁重に辞退すると伊周が「おじけつかれなくも・・・」と言ったのは、「おごれる者たち」を印象づけた。最初の三本が的を射て勢いに乗った伊周が弓を射る時に願い事を言い合おうとの提案をしたくだりは『大鏡』にある通りだ。伊周が「わが家より帝が出る」「われ関白となる」と言った願い事勝負の二つとも伊周が負けて、道隆が止めろと言ったが、『大鏡』や『枕草子』などから知る道隆なら笑いながらその場を納めたに違いない、と私は思った。『大鏡』では伊周は徹底して悪く書かれている。

 

『大鏡』にある通りだ」と書きましたが、違っていました。『大鏡』にある通りではありませんでした。ここは、『大鏡』の記述とドラマの展開は違っていた、と書かなくてはならないところでした。長くなりますが、その箇所を引用します。

 

現代語訳=帥殿(伊周)が、父おとど(道隆)の東三条院殿の南院で、人々を集めて、弓の競射をなさった時に、この殿(道長)がおいでになりましたので、これは思いもよらず不思議なことだと中関白殿(道隆)はびっくりなさって、たいそう歓待なされご機嫌をおとりになりました。帥殿より下級者でいらっしゃったのに先の順番にお立て申し、先に射させ申されたところ、帥殿の射当てた矢数が、二つ負けてしまわれました中関白殿も、また御前にお付きしている人々も、「もう二番お延ばしなさいませ」と申して決着を引き延ばさせなさったので、入道殿(道長)は心中穏やかでなくなり、「それなら、お延ばしなさい」とおっしゃって、また射ようとしておっしゃるには、「この道長の家から、天皇・后がお立ちになるはずならば、この矢当れ」とおっしゃって、矢を放たれたところ、同じ当るといっても、何と、的のど真ん中当ったではありませんか。その次に帥殿が射られたところ、たいそう気後れなさり、お手も震えたためでしょうか、的の辺り近くにさえいかず、まったくの見当違いを射られましたので、御父の関白殿は顔色が真っ青になってしまいました。さらにまた、入道殿が射られるとて、「この私が将来、摂政・関白になるのが当然ならば、この矢当れ」とおっしゃって、矢を放たれたところ、最初と同じように、的が割れるほどに、同じ真ん中を射通されてしまいました。こうなるとおもてなしをなさったり、お取り持ち申しあげていらっしゃった興も覚め、気まずくなってしまいました。父おとどは帥殿に、「どうして射るのか。射るな、射るな」とお止めになられて、その場は白けてしまいました。

(小学館新編日本古典文学全集『大鏡』より引用)

 

 

文中下線した箇所が『大鏡』の記述とドラマの描写が違っています。箇条書きにしました。

①  競射で先に矢を射たのは、ドラマでは伊周だったが、『大鏡』では道長だった。

②  はじめの競射に勝ったのは、ドラマでは伊周だったが、『大鏡』では道長だった。

③  もう一度の競射を提案したのは、ドラマでは伊周だったが、『大鏡』では道隆だった。

④  願い事を唱えて射たのは、ドラマでは伊周が先で道長はそれに習ったが、『大鏡』では道長だけだった。

⑤  勝負が決着して道隆が競射を止めたタイミングは、ドラマでは二度目に道長が「われ関白となる」と言って射ようとした時に道隆が止めた。すでに伊周の負けが決していたからだ。『大鏡』では道長が唱えた二度とも的の真ん中を射たのに対して、伊周は一度目見当違いを射て、二度目は射るまでもなく負けが決していたので道隆が「どうして射るのか」と言って止めたのだ。

 

『大鏡』にある通りだ」と私が書いたのに、違っていたのは私がその箇所を読んでいなかったためです。読んでいないのに読んだように書いたのは問題で、反省しています。なぜこんな過ちを犯したのか、経緯を書きます。

 

この競射のエピソードがあったことは前回15話の感想を書いている時に知りました。あらかた書き終わった後で画像を選択するのに、「弓比べ」とネット検索したら、『大鏡』にあるこのエピソードが目の前に飛び込んできました。不愉快な気持が走りました。『枕草子』には道隆や伊周が出てくるエピソードがいくつかあり、二人に対して親しみを覚えていました。道隆亡き後、伊周が不祥事を起こして失脚したことに大変残念な気持を私は抱いていました。ドラマでこの競射のエピソードを見て、道隆、伊周がこのように描写されるのを不愉快な気持になっていたのです。『大鏡』にも、ドラマと同じことが書かれているのだろう、と思って不愉快が重なったのでした。読むのが嫌になったのです。翌朝平静になった時に『大鏡』の競射のところをようやく読むことができ、ドラマの内容と違っていることに気がつき愕然としました。道兼が父兼家の死んだ時には、『大鏡』の書かれた通りに道兼は喪に服さず遊び呆けていました。一条天皇即位の時に高御座に首が置かれた話は『大鏡』では道長は関係なく、ドラマでは道長が撤去しました。『大鏡』に書かれている通りにはならないと注意するべきでした。

 

 

ドラマではなぜ、『大鏡』の通りに描かなかったのかよくわかりませんが、今後はこういうことが起こらないように注意していきたいと思います。間違ったことを書いて申し訳ありませんでした。

 

ここからは、第16話の感想です。

 

石山寺からの帰り道で突然さわが鬱憤をまひろにぶちまけた。まひろには何のことかわけがわからなかったに違いない。「才能もなく、魅力もなく、家に居場所もなく」とさわが愚痴を言い、『蜻蛉日記』の話では除け者にし、道綱はまひろを、と言いたい放題のあげくに死んでしまいたいとは、まひろだけでなく私もわけがわからん状態に陥った。さわの人物造型に疑問を感じた。実の母の危篤に際し、まひろは他家にいるさわを走って呼びに行った。為時が心からの介護をしていたことをさわは知ったはずだ。まひろに対して感謝こそすれ恨みに思うとは、これ以上の味方はいないはずなのに、味方だと思っていたのに、と言わせたのは、これはもう作家さんの何かの間違いかと、あっけに取られて見ていた。

 

上っ面だけを撫でた台詞だ。情けない内容の台詞だ。単なるわがまま娘のひがみから出たような言葉だ。さわが母と別れ継母と暮らした忍耐の日々、そうして得た心を許せるまひろという友だち、そのような生い立ちから生じた自分の惨めさを表現するのに、平安時代という時代を感じさせながら、若い女の無念さをしみじみと、まひろの胸を打つような台詞で訴えさせてほしかった。さわをしばらくはそっとしておいてあげようとまひろが思う様な形にしてほしかった。野村麻純も役になりきれて充足感が得られるような台詞を、地に足のついた切実さを感じさせてくれるような言葉をさわからは聞かせてほしかった。

 

石山寺で会った寧子が「私は書くことで己の悲しみを救いました」と言っていたことを思い出しながらまひろが小机に向かっていた。寧子の人物造型もわけがわからなかった。人は誰でも苦しみ、悲しみを味わうものだが、それをただ「道綱をよろしく」に収斂させた描き方ばかりしていたのには違和感しかなかった。母親が子どもの行く末を思いやるのは当たり前で、まして一人息子だ。財前直見の演技は「己の悲しみ」に向き合ってきた風貌には見えなかった。私の偏見だろうか。

 

今回の中関白家の人々は散々だった。これ以上ない傲慢な言動を繰り返すどうしようもない人たちとして描かれていた。よくも臆面もなくこのように描けたものだ、と中関白家贔屓の私はNHK制作陣に対して地団駄を踏みそうになった。疫病対策を必要ないと道隆親子はくり返し言ったが、ほんとうのことだったのか。

 

 

定子の後宮のあり様が描写された。待ちに待っていた情景だったのに、やはり道隆親子たちの傲岸不遜な態度にしらけた。おまけに『枕草子』を読めば、女房たちがたくさん侍っているはずの後宮に、伊周兄弟が舞う場面では清少納言一人しかいなかった。女房たちの中でひと際目立つ清少納言という感じはどこにも見えない。こんな状態だったら後宮に出費する費用は僅かで済んだはずだ、と道長に言ってやりたかった。

 

「香炉峰の雪」のファーストサマーウィカはさすが『枕草子』を読み込んだというだけあってよかった。公任が清少納言が簾を上げたわけを説明していたが、こういう『枕草子』由来のところは伊東敏恵のナレーションで聞きたいところだ。行成が書写した『古今和歌集』を一条天皇に献上していたが、三蹟の一人行成が和風の書を大成したことを、その筆跡を見せていた時にナレーションで解説してほしかった。一条天皇が漢籍に詳しかったことがわかる、道隆に疫病対策をするように言った場面での塩野瑛久はイメージにふさわしい演技でホッとした。

 

(愛知県立図書館蔵)

 

吉田羊詮子は怖い顔が常となっている。定子後宮に足を踏み入れる度に、だとは思うが、道長との対面シーンを作ってあげてほしい。きっとリラックスできるのではないか。一本調子の演出しかできないように見える。

 

道兼が、今回は憑き物が落ちたかのような変わり様だったのに驚いた。「汚れ仕事は俺の役目だ」と言って、道長を悲田院に行かせないように計らった。いつの日かまひろに許しを請うようになる前兆だろうか。しかしこの台詞の平板さには辟易する。苦しんだはずの復帰だ。玉置玲央が作った顔の表情にはそうした痕跡がにじみ出ていたのでなおさら、それにふさわしい台詞を言わせてほしかった。

 

たねが登場したと思ったら疫病で亡くなってしまった。ここからのまひろと道長の描写はあり得ないづくしだと思った。まひろは疫病患者を収容する悲田院にどれだけ居たのだろう。二日くらいで疫病に感染したように見えた。そこへやって来た道長に助けられ、道長の馬に乗せられて意識不明のまま家に帰った。たぶん庭先まで馬で入れるはず、どこで降りたのだろう。家に入った道長は為時に「わたしのことはいいっ!」と大声を張り上げた。いくら身分が高いとは言え、人の家に入って主人たるまひろの父に対してこの物言いはないだろうと思った。そうして道長は徹夜で一人まひろの看病をした。あり得ない。道長なら医者を呼べるはずだ。まひろが死んだらどのような言い訳をするのだ。まひろは疫病ではなくただの疲れで意識を失ったのだろうか。

 

(泉涌寺塔頭悲田院)

 

たねが亡くなった。たねには生きながらえてほしかった。まひろの傍にいて『源氏物語』を読んでもらいたかった。竹澤咲子は幼いながら存在感があった、と思う。存在感を発揮させてもらえなかったと言うべきか。せっかくの芽を摘まれたような感じがした。一人の死は大きい。千年前のこの時代、もし、たねが生きて成人して子を産み、その子孫が今に至ればどれだけ現代に住む人々に影響を与えたことか。と、このごろ私はそのようなことをよく考える。歳をとったせいに違いないが、私の祖先の千年前を考えたら、どれほどの人々がそこで、私の祖先たちを産まなければ今の私が存在しないのかと考えたら、のことだが、残念ながらたねの死によって生まれ損なった多くの人が生じたことに愕然とする。直秀もそうだったが、たねもまた、何のために生まれてきたのかと言うより、何のためにドラマに登場させられたのか、直秀やたねをしっかり描かないままに死なせてしまった。安易すぎる死なせ方だ。

 

机の前に座って、頭の中で組み立てた通りの筋書きをただひたすら俳優に演じさせているようなドラマだ、そういう印象を今回は特に抱いた。次から次へと細切れに場面展開するので、その場では筋書きで決まっている必要なことだけを話させる。それも場面の状況説明や言動の指摘など、ナレーションのような台詞ばかり話させている。黙っている場面は台詞が思いつかなかったような感じする。これでは役者がアドリブを入れる余地が全くない。役者が役になりきれない状態で場面が変わるからだ。その場に溶け込んだ役者なら、その場に一番ふさわしいアドリブが出てきて当然で、役者、演出家、作家、制作陣が一体となってこそ面白いドラマになるのだと思う。内容以前に制作陣の姿勢に問題があると今回は特に強く感じた。制作陣が作り出した登場人物はすでに血が通って、視聴者それぞれにイメージが刻まれている。その登場人物には人格が独自に備わっているということだ。誰かが勝手に操っていいわけではないのだ。私はそう思っている。

 

極めつけは最後の場面、まひろの看病で朝帰りした道長の様子を見た倫子が明子以外に女がいると思い巡らしながら、「フフフ」と笑うところだ。黒木華にはこのような笑い方はしてほしくなかった。今回は定子高畑充希も冴えなかった。伊周たちとぐるになっているように見えていたからだ。さすがの俳優陣もこのような演出では見せ場を作れないのではないかと心配になった。

 

乙丸と百舌彦になぜ気の利いた台詞の一つ言わせないのか。彼らも必死に生きる生活者なのに、結婚して子どもを持ちたいのに決まっている、と思うのだが、彼らの本音を聞かせてほしい。まひろだけが生まれてきた意味を模索しているのではないはずだ。

 

 

源信が『往生要集』を著わしたのは985年のことだ。源信は貴族だけでなく一般庶民のことも考えてのことだったに違いない。後に法然や親鸞が貴族だけの仏教を庶民にまで広げる契機となった書物だ。道長が権力者としてすばらしかった、と描くのは構わない。まひろと道長だけが人間ではない、ドラマとして奥行きがあり広がりのある人間ドラマを見せてほしい。今のままでは「大河ドラマ」の名が泣くと言わねばならない。作家は登場人物を意のままに操るのではなく、生み出した登場人物が役者の力によってドラマを展開させていく、その手助けするスタンスを保っていただきたい。すばらしい俳優陣が揃ったのに、宝の持ち腐れだと思う。

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→2点)2.構成・演出=的確か(10→2点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→5.65点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→3点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→6点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→7点)7.共感・感動=伝える力(10→2点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→4点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→2点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→2点)

合計点(100-35.65点)

 

今回は正歴5(994)年のことだった。次の年に道隆は亡くなってしまう。今回の道隆の扱いがあんまりだったので、『枕草子』に語られた道隆の姿を少しだけ見つめたい。

 

『枕草子』第二百六十段(新潮古典集成『枕草子』下巻より)は正歴5年2月の出来事を叙述している。今回16話の冒頭で内裏が映し出され、花瓶に花(たぶん梅の花)があるのを見た時、道隆と造花の花のエピソードを思い出した。造花は桜の花で『桜の、一丈ばかりにて、いみじう咲きたるやうにて、御階のもとにあれば、「いと疾く咲きにけるかな。梅こそ、ただ今は盛りなれ」と見ゆるは、造りたるなりけり・・・「雨降らば、しぼみなむかし」と思ふぞ、口惜しき』と書き出されている。夜の内に雨が降り、造花が駄目になったようなので、道隆が使いを遣って引きとらせたのだが、その顛末がおもしろい。

 

造花の花を持っていく者がいて、『「かの花盗むは誰ぞ。悪しかめり」といへば、(清少納言は自分が咎めたかったが、他の女房が声をかけた)いとど逃げて、曳きもて去ぬ』・・・と造花を持ち去られた後で定子が起きてきて、花はどこへ行ったのか?と問われて清少納言が『春の風』がと言ってごまかした。

そこへ道隆がやって来て、

『「かの花は失せにけるは。いかで、かうは盗ませしぞ。いとわろかりける女房たちかな。睡汚(いぎた)なくて、得しらざりけるよ」とおどろかせたまへば、・・・

 

[現代訳]=「あの桜がなくなっているぞ。まんまと盗まれたのだな。ほんとにだらしない女房たちだったんだなあ。寝坊助なものだから気がつかなかったんだな」と、びっくりなさってるものだから

 

清少納言が『「されど、『われよりさきに』とこそ、思ひてはべりつれ」と、しのびやかにいふに、いと疾うききつけさせたまひて、・・・

 

[現代語訳]=けれど、(道隆の指図で桜を撤去したことを諷して歌を引用して)『先に知っていたのは道隆様で、私たちは有明時には起きていました』と思っておりましたわ」と小声で言うと、道隆様はすかさず耳にお留めになって・・・

 

と言う様なやり取りを、この段ではこのエピソードだけでなく、定子とたくさんの女房たちを相手に道隆がおもしろおかしく話をしていた。この段には興味深い話が他に二つある。道隆の妻貴子と女院詮子のことが書かれている。

 

『上(貴子)も、渡りたまへり。御几帳引き寄せてあたらしうまゐりたる人々には見えたまはねば、いぶせき心ちす。』

 

[現代語訳]=貴子様がこちらへお越しになった。御几帳を引き寄せて、新しく出仕した女房たちには顔をお見せにならないので、不愉快な気持がする。

 

清少納言も、貴子に目通りの適わない新参者の一人だった、と注釈に書かれている。由緒正しい上﨟女房でなかったからだろう。

 

この段は元々、積善寺法要で女院詮子、中宮、中関白家の者たちが参集することがメインの話で、詮子と道隆や中宮定子たちとの和気あいあいな姿を描写している。

 

『 院(詮子)の御桟敷より、「ちかの塩釜」などいふ御消息まゐり通ふ。をかしきものなど、持てまゐりちがひたるなども、めでたし。』

 

[現代語訳]=女院詮子のところから、「ちかの塩釜=こんなに近くにいるのにお話もできませんね、の意」などというお便りがやり取りされる。結構な贈り物などを(使者が)持参して往来していることなんかも喜ばしい。

 

この頃の両者のまだ睦まじかった間柄を、清少納言はまぶしいもののように懐かしく回想している、という注釈が「めでたし」にある。

 

香炉峰の雪の話はこれより後のことだ。

 

次回17話以降、少し予告を見た。今からもう平静でいられない。だからいつまでも書いていたくなる。