『光る君へ』第4回まで視聴して思うこと | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

『光る君へ』第4回まで視聴して思うのは、ドラマとしては中途半端過ぎるのではないかということです。誰一人興味深い人物として描かれていません。作りものというのが前面に出ている感じです。この場面はAとBとが対面してCについて話をする、という設定で展開したら、機械的にそれだけのことしか描写されていない感じがしています。筋書きだけが棒読みのように進行しているドラマのようです。登場人物が生身の人間として生き生きしていない。人物の内面に迫る描写がないからだと思われるのですが、これは脚本と演出に問題があるのではないかと思います。

 

今回で言えば、

散楽が演じられている広場で道長と出会ったまひろが彼と親しく話している場面を見ていると、これは筋書き通りに操られているまひろと道長が話している、というふうに見えました。この時点でなぜこんなに馴れ馴れしく話ができるのだろう、と違和感しかありません。道長役の柄本佑は抑制のきいた若者らしい雰囲気で大物になる素質も漂わせて好印象の演技をしているだけにもったいない。吉高由里子は話し出すと現代女性そのものです。いくら赤い糸で結ばれた二人だとしても、貴族のはしくれのお姫様だから、少しくらい奥ゆかしさを感じさせてくれてもよかったのではないでしょうか。若い頃の紫式部は自由奔放なところもあったのでは、と思っている私でも、すっかり道長に気を許しているような素振りにはついていけません。

 

ここまでのまひろと道長との交流を見ていると、脚本家と演出家の頭には、まひろと道長を結びつけようとするあまり、結果ありきの練れてないエピソードをいたずらに俳優に演じさせているだけのような気がします。だから二人が会って話をしていてもまったくおもしろくないやりとりに見えてしまう。

 

 

貴族の館を襲う盗賊=義賊?の頭領らしい直秀にまひろが謝れと詰め寄る場面もちょっと不自然すぎる設定だと思いました。道長が捕まったのは、まひろがたまたま指さした方向に道長がいたから生じたことで、直秀の責任ではなかったはずです。これも直秀をまひろと道長とに印象づけようとしたエピソードなのでしょうが、空回りしている感じがしました。

 

皇位を退いた円融が倫子を叱責殴打する場面の坂東巳之助の演技が際立っていました。鬱積した憤懣のあったことがよくわかる演技でした。追いすがる倫子のみじめさを吉田羊もうまく演じていました。円融から倫子の父兼家に毒を盛られたと言われて、父兼家や兄たちを倫子が問い詰めた場面では正隆が長兄らしく一族の結束をはかりましたが、何かとってつけたような印象でした。そもそも天皇に毒を盛ったという話が円融から出て、それを聞いた倫子が父や兄たちを問い詰めるという設定が見ていてあり得ない感じがしました。円融はただただ兼家が嫌いだったから詮子を無視したというのでよかったのではないか、と。毒を盛ったというのは兼家から詮子を含めた子どもたちに家族の結束を図るために話をしたことにすれば、と思ったりしましたが・・・。

 

今回のラストシーンにも抵抗がありました。五節の舞を舞っているまひろが道長を見つけて、道長の隣に道兼がいたことから二人が兄弟だったことがわかり、そこで当然茫然自失するわけですが・・・。『源氏物語』を書くことになる紫式部に、「母の仇」を背負わせる必要があったのか、なぜ脚本の大石静はこのような史実にない出来事を導入したのでしょうか。

 

 

大石静はインタビューに応えて、道兼がまひろの母を殺したのは史実ではないと明言しています。何のためにこのような設定をしたのか当初から疑問でしたが、今回の最後の場面を見て、これはやはりだめだ、と思いました。

 

五節の舞は百人一首でも歌われていて、

 

天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

 

は有名な歌で、「空を吹く風よ、(天女が天と地上を行き来する)雲の中の通り道をふさいでおくれ。この美しい天女の姿をもう少しとどめておきたいのだ」、という意です。五節の舞を踊る娘たちを天女に例えて読んだ歌で、平安時代の国風文化の粋が伝わってきます。まひろが舞っているときに、この歌の解説をしてほしかった。気心が通い合った男は母を殺した男の弟だったというのではありきたりな韓国ドラマを見ているようです。

 

 

 

歴史ドラマの「ドラマ」の面が強調されて史実でないとわかっていても、その方が面白くなるからといって虚構に走るのは想像力の貧困としか思えないのですが、どうでしょうか。

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→2点)2.構成・演出=的確か(10→3点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→5.76点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→3点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→5点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→6点)7.共感・感動=伝える力(10→2点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→7点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→2点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→2点)

合計点(100-37.76点)

 

ここからは感想番外編です。

歴史ドラマで意図的に史実に反したエピソードを取り上げることの是非を、マイクロソフトのAIを活用したBingチャットで検索したら以下の通りでした。

 

私の質問

NHK大河ドラマは実在した人物を主人公にして展開します。しかし史実にない出来事を意図的に描くことがあり、これは歴史を歪曲するのではないか。ドキュメンタリードラマでもなく、史実に沿って解釈すること、虚構は史実を曲げない範囲で想像力を生かすのがあるべき歴史ドラマだと思うのだが、どうでしょうか。

 

Bingの回答

こんにちは。大河ドラマは、実在した人物を主人公にして展開することが多いですが、史実にない出来事を意図的に描くことがあります。これは、物語の展開を面白くするためであったり、視聴者に感動を与えるためであったりすることがあります。ただし、歴史を歪曲することは避けるべきです。ドキュメンタリードラマとは異なり、史実に沿って解釈すること、虚構は史実を曲げない範囲で想像力を生かすのがあるべき歴史ドラマだと思います。

 

チャットでしたが、一瞬の内に、私の質問をなぞったような回答が来ました。

 

ボタンの掛け違い、という言葉があります。ボタンを間違った穴にはめると後で問題となる、という意ですが、紫式部と道長をソウルメイトなどとする設定をしたことが大きな間違いだと私は一昨年の5月にNHKに投稿しました。権力を握り、盤石のものとするために道長が何をしたかというのは、『日本紀略』『大鏡』『栄華物語』『御堂関白記』『小右記』『権記』などの史料があり、それぞれに食い違った見解があり、さまざまな解釈がなされています。

 

『栄華物語』では道長が善良で権力欲のない人物として描かれているそうです。私が読んだいくつかの本でも、『大鏡』や『小右記』で記されている道長の強権的な言動が『栄華物語』ではそういった事実がなかったかのようになっていることがありました。

 

藤原道長がいなかったら『源氏物語』は今のような形で書かれなかった、それを支援した道長はえらい、と思われている人が大変多くおられるのかと思われます。それに紫式部は道長の妾だったと室町時代初期の『尊卑分脈』に書かれていることから、今回のような構想に至ったのかも知れません。なぜ『尊卑分脈』にそのようなことが記されたのでしょうか。『源氏物語』を書いた紫式部は地獄に落ちたとか、『源氏物語』の内容がけしからんという意見がたくさんあったそうです。紫式部を気に入らない、と思った人はたくさんいたようです。

 

 

大石静は道長の墓参りに行ったときに、「道長にこの作品を書け!と言われていると思いました」と語っています。道長のことをありのまま書こうと思われたのではない感じがします。

 

1月3日にNHKで放映された「50ボイス大河ドラマ『光る君へ』」で大石静が紫式部のことを「清少納言とか赤染衛門など同時代に文学者がいるけど、紫式部はまったく格の違う奥の深いすごい作家だった」と語っています。聞いてびっくりしました。「格の違う」とはどういう意味なのでしょうか。

 

私は紫式部と清少納言は共に日本を代表する作家で、共に世界的な作家だと思っています。『枕草子』を読んでいると涙が出てきます。『源氏物語』も涙が出てくることがありますが、まれです。『枕草子』は特別な書です。定子後宮讃歌であり、定子鎮魂歌でありながら、哀しさ暗さがみじんもない。「をかし」一色の内容です。「あはれ」もほんの少しありますが・・・。たぶん、清少納言は滂沱の涙を流しながら書き進めたに違いありません。その経緯を紫式部もよく理解していたと思うのですが・・・。肩を並べる、と言ってほしかった。赤染衛門も『栄華物語』の著者だと言われています。内容はともかく大変な労作です。「格が違う」などと言ってほしくなかった。

 

大石静は定子や清少納言をどのように書くのでしょうか。定子一族が苦難に見舞われて、藤原伊周、隆家兄弟はミスを犯したかも知れませんが、あれほどに醜態をさらしたのは冤罪もあったのかも知れません。だからこそ定子も髪を切ったのではないかと・・・。それはともかく、道長は悪いところがない、とするシナリオだけは御免被りたい。そんな思いでいます。