NHK大河ドラマ『光の君へ』第1回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

(俳優さん、作家さん、スタッフさんなどへの敬称は敬意を込めながら略します)

 

オープニングクレジットの背景と音楽が出色でした。掴もうとしている手の動きがドラマ全体を暗示しているようで、それにマッチしたピアノの響きなど気持の奥深くに入り込んでくる曲調もよく、いろいろと想いをめぐらせてくれそうで毎週の楽しみとなりそうです。

 

冒頭の安倍清明が星占いしている場面では、そういう時代だったことを改めて思い返しました。鳥籠の鳥は『源氏物語』若紫巻を想起させて、そのあとまひろが漢文を傍らで聞いて暗唱している場面によって、幼い頃の紫式部の姿が浮かび上がり、貧しそうな貴族の家の娘だったという印象がもたらされて無難な滑り出しだったと思います。

 

 

俳優陣では紫式部の父藤原為時を演じた岸谷五朗が断然よかったです。学識はあるけれど零落した貴族の雰囲気がよく出ていたと思います。ようやく東宮師貞親王の漢文の指南役となったのに、そのあとすぐ、取り立ててもらった右大臣藤原兼家の息子道兼に、妻のちやはが斬殺された無念さを覆い隠して、病で亡くなったことにするというくだりは、冷徹な身分社会に生きる下級貴族の悲哀をよく感じさせてくれる演技でした。

 

逃げ出した小鳥を追って、まひろが三郎とはじめて出会う場面はもう少し捻って惜しい場面でした。まひろが三郎のパフォーマンスに応じたとはいえ、漢文を砂地に書き出したことなど、二人の気が合ったにしても、あまりにも都合のよすぎる展開でした。その前に、同じ場所で出会っていて一応面識があったくらいの前置きがあれば、自然に仲良くなる場面となったのではないかと思いました。まひろ役は幼いのにメリハリのきいたいい演技だったし、三郎役も理不尽な次兄の乱暴にめげない微妙な役回りをうまく表現していて好感が持てました。

 

 

藤原兼家は、『蜻蛉日記』の作者を泣かせはするが冷静で思いやりもあり、風格も感じられて私の中では好漢のイメージでした。権力者に上り詰めた策士なので、目的のためには身内の者を利用して策謀をめぐらすのは当たり前で、段田安則は上手く演じていたと思います。道兼は思いきり悪く描かれていましたが、天国の道兼はこりゃ災難だと愚痴っていることでしょう。たしかに、次男として生まれて長男の後塵を拝することに不満だということがありありとわかる演出で、強い印象を残しました。嫡流でない家系は没落する定めの社会だということを感じさせてくれました。

 

放映される直前のネット情報で、このドラマで時代考証をされる倉本一宏教授が寄稿されていて、歴史考証をする教授の他に風俗、建築、和歌、漢詩、芸能などの考証をする各専門家がいると書かれていたのですが、クレジットタイトルでは他に平安料理考証の担当の方もおられました。平安時代の日常を描くのはとてもむずかしいことだと思います。が、気になったことを一つ、まひろと三郎が会っていた場所はまひろが住んでいた堤第の東側を流れる加茂川の川原のはずですが、山が遠くにありすぎたのに違和感を覚えました。どこの川で撮影されたのでしょう。大文字山や東山は近くに見えるはずだし、比叡山も大きく見えるところです。そういう山々を映しナレーションも入れて、紫式部の育った場所をしっかりと印象づけてほしかったです。

 

 

この写真は藤原道長が倫子との結婚後に居住していた土御門第付近から撮ったもので、向こうに見える門の左側を行けばすぐに紫式部が住んでいた堤第跡があり、正面の山との間に加茂川が流れています。加茂川の風景は変わっても、山のあり様はそんなに変わってはいないのではないでしょうか。山に囲まれた京都市は狭いので碁盤の目の通りからは南の方を除いて、東・北・西の方には必ず山が見え、京都市内で育った私にとって、山が近くに見えないと不安になるくらいです。

 

母が自らの目の前で殺された紫式部という設定には抵抗がありますが、それがドラマなので受け入れるしか仕方ありません。連続ドラマは3話までを見終わるまでは核心的な批判をしないことに決めています。以下は私が決めた基準で採点した第一話の評価点数です。10項目各10点満点でつけて100点満点で点数をつけています。一生懸命にドラマ作りをされたスタッフさんや俳優さんには失礼ですが、一視聴者としての評価だとご容赦ください。

 

1.脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→2点)2.構成・演出=的確か(10→4点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→5.65点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→6点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→6点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→8点)7.共感・感動=伝える力(10→2点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→4点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→2点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→4点)

合計点(100→43.65点)

 

ここからは、感想番外編です。倉本一宏教授の投稿の最後は、

 

貧乏学者の娘と、右大臣家の御曹司とが、幼い頃に知り合いだったということは、現実的にはあり得ないことである。無官とはいえ一応は貴族であった家の姫君が、外をほっつき歩くことは、当時はなかったのである。

 

となっています。作家さんは思い切った虚構を駆使されているようです。

 

気になったことなどを書いてみます。

紫式部の姉が登場しませんでした。『紫式部集』に「姉なりし人亡くなり、・・・」とあり、妹を亡くした友だちと姉君、中の君と書き合って文を交わしていた、という詞書があります。母親を早くに亡くした少女時代を共に過ごした姉が描かれないのに違和感を覚えたのです。方違えで紫式部の家に泊まった男との贈答歌は姉の存在なくして成立しません。男に歌を贈る年齢に達していた思春期真っ只中の紫式部にとって、姉は彼女が成長する上で重要な役割を担ったと思っていたのですが、描かれないと知ってさみしかったです。

 

 

第2話のタイトルは「めぐりあい」です。『紫式部集』の冒頭歌に

 

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜はの月かげ

 

(百人一首などでは最後の句が「夜はの月かな」となっていますが、大方は「月かげ」が支持されているようで、私もこの方がぴったりきます)

 

があり、紫式部が人生を振り返って大切な歌だからこそ第一番歌にしたのではないかと言われています。たしかに、じっくり読めば読むほどに味わい深く感じられます。

詞書は

はようよりわらは友だちなりし人に、としごろへて行きあひたるが、ほのかにて、十月十日のほど、月にきおひてかへりにければ

 

となっています。幼い頃に友だちだった人に、何年か経って出会ったところが、わずかの時で顔もはっきり見られずに、月と競うように帰ってしまったので、という意です。

それだけでも十分に感じるところがありますが、この歌には人生そのものが見え隠れしているような雰囲気が醸し出されているように思います。どんなに親しくしていてもその人のことはよくわからないものだと、人間関係全般を指しているようにも見えます。人生もまた、わかるようでよくわからないうちに、時だけが経っていくはかなさのようなものが感じられる歌です。

 

この歌に基づいて第2話が展開されるのかと思ったら、まひろと三郎とのめぐりあいのことのようですね。仕方ありません。第1話にこの歌が取り上げられて、まひろの幼友だちとの「めぐりあひ」が展開されていたら、紫式部にふさわしい文学の香り高いドラマとなったように思います。地味なドラマとなって視聴者に支持されないかも知れませんが・・・。