紫式部はどのような女性だったのだろうか? ― ① | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

 

写真は少し南西に面したベランダから見た風景です。写真ではよくわかりませんが、向かって左の方から流れてくる木津川の土手が朝顔の背景を東西に横切っています。この木津川沿いを遡れば奈良街道に合流します。南へ行けば奈良です。

 

鉢植えの朝顔が花を咲かせています。紫式部の時代の朝顔がどのような花を咲かせたのかわかりませんが、紫式部は朝顔の花を歌った和歌を『紫式部集』に遺しています。

 

おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする あさがほの花

 

この歌は自選歌集『紫式部集』に載る紫式部の少女時代のものです。若くして亡くなったと推測される姉がまだ存命の頃の歌なので十五歳から二十歳前後くらいだったのではないでしょうか。

(『紫式部集』の写本の内、新潮社『新潮日本古典集成=紫式部日記・紫式部集』に掲載されている定家本中最善本とされる実践女子大学本から引用、以降も同様引用転載します)

 

詞書は 〝かたたがへにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありとて、かへりにけるつとめて、あさがほの花をやるとて〟 となっており、方違えで紫式部の家に泊まった男が彼女と姉の部屋を覗いたことを咎めた内容となっています。

 

たぶん明け方前に男が姉妹の部屋を覗いたのを姉妹が気づいて、早朝家を発つ男の様子を見たら知らん顔したのでこの歌を朝顔の花とともに男の元へやったということです。とぼけている男の顔を「そらおぼれする あさがほの花」と表現したのをみれば、彼女が機知に富んで物怖じしない率直な性格の少女だった印象が伝わってきます。

 

その男に対して親しみを紫式部が感じていたからこそこのような歌を贈ったのではないでしょうか。早朝に手際よく歌を贈ったことと歌の内容からみれば紫式部はかなり気分が高揚していたのではないでしょうか。以下はその男からの返歌です。 

 

返し、てをみわかぬにやありけん
いづれぞと いろわくほどに あさがほの あるかなきかに なるぞわびしき

 

たぶん男は妹の紫式部から贈られてきたことを承知で、姉か妹か「いずれぞと」と思っている内にせっかくの朝顔がしぼんでしまったよ、と返しました。

 

返歌がもたらされた時の紫式部の様子が目に浮かびます。姉と一緒に笑いながら何度も読み返したのではないでしょうか。この男のとぼけた感覚に乙女心を存分にくすぐられた紫式部は淡くてもたしかな好感を抱いたように思われます。男とは、後に夫となる藤原宣孝という説が有力で、私も歌の雰囲気が後の宣孝の歌によく似ているのでそのように思います。

 

紫式部の父親と宣孝とは親戚同士で花山天皇に同じ頃に仕えていました。同じ年頃だったので紫式部が生まれる前からの付き合いが繁くあったように思われます。父親は当然のごとくに娘たちのことを宣孝に告げ、紫式部のことを学問好きで男を凌ぐ才のあることも複雑な思いで話していたのではないでしょうか。もしかしたら、宣孝の息子と娘たちが結ばれたらとでも思っていたのかも知れません。

 

家集には夫藤原宣孝との贈答歌が少なからず入っています。仲違いの歌もありますが、いつ読み返しても微笑ましい内容の贈答歌ばかりです。紫式部がけっこう宣孝をやり込めている印象の歌があり、それを彼女は楽しんでいたように思われます。