
害虫/塩田明彦 (2002)
監督:塩田明彦
脚本:清野弥生
出演:宮崎あおい、田辺誠一、蒼井優、沢木哲、石川浩司、天宮良、伊勢谷友介、りょう
音楽:ナンバーガール
あらゆる悪徳こそが人間存在の本質であり、
善とはただかろうじて悪ではない状態に過ぎないのだと考えるならば―――
およそこの世で最も真実らしくないものを

誰も頼りにできない、戦場のような家庭や学校――。
北サチ子(宮崎あおい)は、母親稔子(りょう)の自殺未遂、小学時代の担任、緒方(田辺誠 一)との恋愛などが影響してか、同級生の女の子とは違った雰囲気を持つ中学一年生の少女。
自分に関する噂話が飛び交う、気詰まりな学校をドロップアウトして、街で気ままに毎日を過ごすことにしたサチ子は、万引きで小銭を稼いで生活する少年タカオ(沢木哲)と、精神薄弱の中年男(石川浩司(たま))と知り合う。彼らと小さな悪事を楽しみ、子供らしい笑顔を取り戻す一方で、変わってゆく自分に対する混乱した気持ちを、教師を辞めて遠方の原子力発電所で働く緒方への手紙に書き付けるサチ子。

哀しすぎて泣くことすらできないまま、十三歳の少女は軽やかに疾走する。
一方、クラスメイトの夏子(蒼井優)の努力のかいあって か、サチ子は再び登校し始める。合唱コンクール、人気者の男子生徒との恋、そして何より夏子という親友を手に入れて、順調な学生生活を送るようになったサチ子に、残酷な現実が次々と突きつけられていく・・・。
子供らしい悪戯は加速し、自分のことですら信じられなくなったサチ子は、唯一信じられる存在、緒方に会うために走り出す。

だが、待ち合わせの喫茶店に緒方はなかなか現れず、「いい仕事を紹介する」と声をかけて来た若い男と店を後にした彼女は、入れ違いに駐車場に入って来た緒方に気づきながらも、そのまま彼の車に揺られて行く・・・。
映画『害 虫』
2002年 ユーロスペース公開
●映画の窓から/映画批評・社会批評:『害虫』(塩田明彦監督)
海に面した小さな町での、1人の小さな女子中学生の身に降り懸かる、彼女にとっては抱えきれないような大きくて重い出来事たちを描いた悲しく痛い青春映画である。「青春という痛み」を見事に描いた作品といえばすぐに岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』が思い起こされるが、この作品は『リリイ』の後に作られたものである。リリイという金字塔を前にしていかに埋没しない作品を築けばよいのか。その過酷な難題に塩田監督は自分なりの答えを示すことが出来たといえよう。
本作の特徴はその極めて抑制された演出だ。BGMやセリフは少なく、起伏の緩やかなストーリーテリングが基調となっている。細かなカット割りもなく、カメラはゆっくりと呼吸をして情景をフィルムの中へと吸い込んでいく。北野武や岩井俊二の作風とも重なるが彼らとの決定的な違いは「映像の記号性、象徴性、あるいは代表性の強さ」である。各シーンがそれぞれに「今、何が起きているか、この人物はどんな気持ちなのか」を力強く語る。あいまいで不要に思えるシーンはない。色彩で喩えるならどの映像も皆「原色」なのだ。グレーやピンクや紫はない。そのため、「抑制した演出」という「沈黙」の世界の中でそれぞれの場面がしっかりと主張する、「黙して語る」とでも言える両義性を本作は帯びている。一例を挙げれば、主役の女子学生の洗髪後の濡れた髪を丁寧にいたわるように優しくタオルで拭く小学校教師とのシーンだ。このわずか1分にも満たない映像から「2人の間には深い愛情があった」という事実を見る側に全て伝えきってしまう。そして、「象徴的なのにベタではなく陳腐でもない」のである。したがって、文学で言えばこの作品は一篇の美しい叙情詩のようだ。また私小説的でもあるため、リアリティも合わせ持つ。
「原色」の映像たちが見る側の感性に遠慮なく迫り、疼くような痛みを与え続ける。ラストの後味の悪さと残酷さも、「救い」の存在に淡い期待を抱いていた観客を冷たく突き放す。彼女にとっては「生きること」それ自体が「敵」なのであった。けれども赤や緑だけでなく、実は時には「透き通った白い」色をした映像もあったように思う。この純白こそが青春であり、彼女の前に広がる未来なのだろう。日常という平坦な戦場を、彼女はきっと生き延びる。 (nobuo)
●ipepのブログ
「宮崎あおいさんの作品の感想とその周辺の記録」:映画4位 害虫(2002)
