再びドビッシー    11/19 |  SHOKEI 'S TIMES

再びドビッシー    11/19


$shokei's time-B.エバンス



ドビッシーのピアノ曲集『子供の領分』の楽譜が
古本屋で100円だったので買ってしまいました。


1908年頃の作曲だから 約百年前の音楽です。

娘のシュシュのことを想い「人形へのセレナード」を書き、
それを3曲目に入れて『子供の領分』を書き上げたそうです。

6曲目の<ゴリウォッグのケイクウォーク>は
シンコペーションによるラグタイムな曲ですが 途中に
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲の旋律が引用されます。

ワーグナー嫌いなドビッシーは 
この旋律を笑い声のような音で邪魔をしているみたいです。
かなりの皮肉屋なのか 遊び心からなのか……




日本人はクソ真面目だから 
作品の中で遊ばないみたいだけれど
絵でも音楽でも 個人的な遊び?が
よくみられます。

バッハの『フーガの技法』という曲の最後が
BACHで終わらせているのも・・・
つまり Bはシ Aはラ Cはド Hはシ♭・・かな

シューマンはこの手のアナグラムを得意としたようです。

『謝肉祭』op.9の11曲目キャリーナ(妻クララ)も
彼女の生地のボヘミアのアッシュ ASCH を音に変えて
Aはラ S→Esはミ♭ Asでラ♭ Cがド Hがシ♭とか
これらを全曲の循環主題にしているそうです。

日本の武満徹の『海へ』も SEA だから ミ♭ ミ  ラ で
テーマを作ったとか・・・

そんな風に個人的な遊びを内包したような
絵を描きたいと思っています。

イラストレーションはコンセプトを言葉の替わりに
伝えるのを使命としていると思いますが
絵画は もっともっと主観的で自由でありたいです。

「素直な独り言」なので 僅かな人にだけ 
共感してもらいたいものだと思います。


自分と人との 間に「隔たり(差異)」があるからこそ、
言葉が生まれ、取り交わされるし、また「表現」もあると思います。

しかし言葉(表現)は他者に届くとは限りません。
それでも呼び掛けるし、
相手も届かないかもしれないと思いながらも
言葉を投げかけてきます。

届かないと思った同志にこそ
「共感」があるのだと思います。

その意味で「共感」は、理解するとか わかり合う とは違うと思います。
ドビッシーもセザンヌも・・・・ 
なんで その作品を作らなければならなかったのかなんて
わかるはずありません。
作者の背後から肩越しに
その秘め事(制作)を覗き
勝手な解釈をするだけ・・・でしょ

反戦歌みたいなメッセージソングや聖画像など
メッセージ性が強いものは、イラストだから 
わかってもらう事が必要でしょうが~

詩や音楽や絵画は
作品の奥に潜む「形而上的なモノ」を 
ただ共感してもらいたいモノだと思います。