ドビッシーを聴きながら   10/29 |  SHOKEI 'S TIMES

ドビッシーを聴きながら   10/29

$shokei's time-ドビッシー

ドビッシーの著書『音楽のために』(白水社)や
ミケランジェリの1993年の「ラスト・リサイタル」という中古CDを
安価入手したこともあり ここ数日、ドビッシーばかり聴いています。




好きなミシェル・ベロフの新旧アルバムを聴き比べたり
自由型のコルトーやフランソワ、硬質なミケランジェリや端正なギーゼキングなどを
楽譜を見ながら聴いていると 曲の解釈も様々で 自分勝手に妄想が広がります。

ドビッシーを「印象派」などと言う人がいますが、
もっともっと未来に向かって尖っていた作曲家だと思います。
輪郭線を曖昧にすることは 印象派というより
抽象画のような全体的としての自由な構築性を感じます。

ドビッシーは、インドネシアのガムラン音楽に影響を受けたそうです。
新しいことを始める人は、何も無い所から作り上げるのではなく、
他の人が考えもつかなかったようなモノからインスパイアーされたり、
合体して生み出すことが多いように思います。

弁証法的な発想と言った方がカッコいいかもしれません。

男と女のように相反する人間の両親がいて子供が生まれる・・・・
何かを作り出すことって どこか人間の出産にも似ているなぁと思います。

おたくアニメのつまらなさは、異文化を拒み、
身近な似た者同士の中だけで生み出しているからでしょう。
(所謂、公募展的な絵画と批判される流行作品も同様かな)

ピカソやモジリアニが アフリカ彫刻に影響を受けたのは有名ですが、
パントマイムのマルセル・マルソーは ロダンの彫刻を研究したそうだし・・・
マイケル・ジャクソンはそのマルソーを意識したとか(ムーン・ウォーク)
クレーやマティスが ヴァイオリン奏者だったり・・するのも面白い。
セザンヌは地質学が好きだったそうですが 
誰かその辺の関係を研究発表していただきたいです~。
とにかく遠くの他のジャンルとリンクして進むみたいです。


青柳いづみこさんの著書『指先から感じるドビッシー』に 
「ドビッシーの音楽は対象物を一度記憶の中に取り込んで、
それが十分にこなれて自然に音になり、熟成されて出てきたもの~」
と書いてありました。

絵画と似ていると思いました。

画家の松本竣介が『雑記帳』の中で 
デッサンしてから半年ぐらいしないとと
熟成された自分のフォルムにならない・・・とか 書いてありました。


青柳さんのこの本には「~ドビッシーの作曲方法は、
メロディ・ラインだけ決まっていて
下にどのような響きの和音をつけるかは
流動的だった~」と書いてありました。

JAZZのビル・エバンスが 演奏をする際に 原曲の和音に拘らず
『代理コード』を考えることでアドリブを広げていたのを思い出します。

30年以上 デッサンの講師をしているのですが
一般的に勘違いしているように思うのは
デッサンは現実を写す訓練ではなくて
比例というか「代理コード」を付けることに似ていると考えます。

いくら頑張っても 鉛筆や木炭では 現実の光の明暗の幅は表せないし
光は混ざると白くなるけれど 絵の具は暗い灰色になってしまいます。
遠近法の欺瞞もあり 見えたままではないのが前提になります。

その比例的な変換操作の操作(ヴァルール)が
すごく大切だと思うのですが
学校で教えている所は少ないようです。


あ アンチーム展の油絵を描かなくては・・・
2作目を描き始めたけれど あと描けるのは1日だけしかない
代理作品もないし・・・どうしましょ



$shokei's time-夕焼け
             描き始めたばかりの2作目