心屋の認定講師をされていた
岡田さんが亡くなったそうです。
私は岡田さんと、直接面識ありませんが
ぢんさんの、東京ドームシティだったかな
ライブをやった時のスタッフに
岡田さんがいらして
「えっ!ぢんさん、スタッフTシャツで
ステージに上がるんかな」
と思ったら岡田さんでした。
すごく似た人で、びっくりした記憶があります。
昨日は、岡田さんを悼む記事をいっぱい見ました。
それを読みながら思っていたのは
私はその、悲しみや寂しさを共有できないんだなぁ…でした。
疎外感。
こんな時でも、「自分!自分!」で
ほんとに嫌になるんだけどね。
岡田さんをお見かけしたドームシティでも
同じようなことを考えてた。
その日、スタッフをされていた
認定講師の皆さんが、
ライブ終盤でステージに上がったんだけど
私はそれを客席からモヤモヤしながら見ていた。
私もあの壇上にいるはずだったのに。
なんで私は客席から見上げてんの?って。
岡田さんを悼む記事を読みながら、思い出していた。
疎外感を感じやすい、自分が嫌だった。
仲良しグループに属していても
声をかけてもらえるまで、会話に入れない。
喘息の発作が出て、部屋で横になってると
リビングから、家族の笑い声が聞こえて寂しかった。
自分の存在を忘れられてしまった気がして
悲しくて、よく泣いていた。
忘れられてしまうことが怖かった。
友達に、
家族に、
先生に、
同僚に、
ぢんさんに、
忘れられてしまうのが怖かった。
私の目立ちたがり屋は、
忘れられてしまわないための、アピールだったのかもしれない。
以前読んだサインという本に
人の死は、それ自体がある役割を担っている。
残された人は、悲しみを乗り越え、学んでいく。
死は、魂の成長を促し、生きるための活力を増やし、亡くなった人の心を受け継ぎ、周りの人々に愛を与え続けていくためにある。
…とあって。
母を亡くした後、
辛くて悲しくて、自分の中に納得できる答えが欲しくて、読み込んだ言葉。
確かに、私にとって「母の死」は
悲しみや怒り、喪失感、後悔という激しい感情の渦を経た今も、形を変えて関わり続けてくれている。
そして、岡田さんは
私が遠ざけてきた感情を、思い出させてくれた。
人の存在って、それだけですごいんだな。
直接面識のない私にも
とても大きな影響を与えてくれる。
お酒が大好きだったという岡田さん。
私がそちらに行きましたらば
ぜひご一緒させてください。
ありがとうございました。

















