外宇宙よりも内宇宙を見よ『アド・アストラ』 | しばりやトーマスの斜陽産業・続

外宇宙よりも内宇宙を見よ『アド・アストラ』

※これは前ブログの過去記事(2019年10月01日)の再録です

 日米ほぼ同時に公開された本作。アメリカでは評論家筋から高い評価を受けている一方、一般の観客からは「ようわからん」「退屈」「寝た」という声も聞かれる。なぜ両者の間で評価が分かれたのか?

 人類が宇宙へ進出して月、火星に拠点を築き、そこからさらに外宇宙へ向かっていこうとしている時代。ブラッド・ピット演じる宇宙飛行士のロイはどんな危機も冷静沈着に対処する男である。冒頭、大気圏外で作業中に宇宙の果てから飛来するサージ電流による事故が起き、そのまま地球へ落っこちるという危機に見舞われても表情一つ変えずにパラシュート(!)を開いて無事帰還する。事故後の精神安定テストも合格し、再び宇宙へ戻ろうとする中、所属する宇宙軍から16年前に宇宙で消息を絶った父親クリフォードが今も生きているという話を聞かされる。父親役は宇宙人ジョーンズことトミー・リー・ジョーンズ。
 父親は地球外生命体の存在を調査するリマ計画の責任者として関わっていたが、任務を放棄し計画に参加していた人間をすべて殺し海王星まで逃亡、そこからサージ電流を地球に向けて放っているという。ロイの任務は火星までたどり着き、海王星にいる父に連絡を送ること。
 かつて父の同僚だった宇宙飛行士プルーイット(ドナルド・サザーランド)とともに地球を経つ。月に到着した二人は軍の警備で月の基地へ向かうが、観光地と化した月では貧富の差がすさまじく、観光地の裏側では盗賊らによる略奪が起こっていた。それに巻き込まれたロイは同行する人間の多くを失い、プルーイットも負傷のため任務を外れることに。去り際にプルーイットは「軍は君を信用していない」とささやく。
 火星に向かうまでもさらなるトラブルに巻き込まれるのだが、いずれの場合もロイはたいして表情も変えずに対処していく。たとえ人が死のうとも、だ。

 ロイが何故冷静に対処できるかというと、他人に一切興味がないからだ。自閉症を患っているロイは他人への共感や感傷がなく、広大な宇宙に出ても関心は自分にしか向かない。英雄とされた父親は仕事人間で家庭を顧みないため、長い間関係を絶っていて、自分が妻(リブ・タイラー)と別れたのもそのせいかと。そんな自分を変えたいと思っていても・・・変えるための行動をする意欲がわかない
 60~70年代にSF界に起こったニューウェーブ運動は「SFは外宇宙より内宇宙をめざすべきだ」という言葉が象徴するように、人類にとって大事なものはアウタースペースよりもインナースペースにあるとした。宇宙よりも人間の内面に探索すべき真実がある。

 ロイは地球外生命体がいるかどうかより、父親に再会して分かり合えるかどうか、自分は人を愛することができるのか、それだけを見つめている。『アド・アストラ』はあらゆる意味で『地獄の黙示録』に似ている。ジャングルの奥地で軍のコントロールを離れ勝手に王国を作っているカーツ大佐の抹殺を命じられたウィラード大尉は川を遡って奥地を目指す。旅の過程でアメリカ軍の暴虐を目の当たりにするがウィラードの心は揺れない。冷静だったウィラードもやがて心の平衡を保てず、村で少女をレイプしようとした兵に「どうかしている」と蛮行をやめさせる。
 ロイも火星で父親へ軍に一字一句コントロールされたメッセージを送り続けるが、反応はない。最後にロイは命令に逆らい「会いたい」と告げる。その時初めて返信が来るのだが、軍はロイの任務は終わったと地球に帰ってくるようにいう。軍の目的はクリフォードの居場所を突き止め、核を打ち込んで抹殺することだった。ロイは軍の宇宙船に乗り込み、乗組員を全員殺し父の元にたどり着く。

 SFマニアや映画マニアな人たちは恍惚すら浮かべる作品だろう。ニューウェーブとしては完璧な映画なのだから。宇宙人より、自分の内面にこそ探索すべく謎があるのだから。自分の内面に何があるのかわからない人にとっては宇宙の果てまで来てその景色にすら興味がまるでなく、自分の内面だけを見つめているブラピに感情移入できるだろう。
 だからといって娯楽として面白いかどうかは別の話なので、退屈といえば退屈だろう。『地獄の黙示録』や『2001年宇宙の旅』(SF映画の金字塔!)がすごいけど、退屈なのと同じ。けれど娯楽よりも重要なものは自分の内面にあるのだ。