相談者にタロットを読むとき、
ある程度の繊細さを持っていれば
シンプルにカードを読むことが難しい…
と感じるケースが出てくるとおもう。
相手がどう受けとるかが気になる。
こんなこと求めてないんだろうなとか、
傷つかないだろうかとか。
だからタロットを読むことは、
タロットリーダーにとっても人間修行、
コミュニケーション修行の場になる。
今年の夏ゼミで
”ライティング”をテーマにしたのは、
そういう伝えることを磨ける場
にしたかったから。
わたしはタロットリーディングを
ただ「カードがこう出たからこうなります」
というものではなく、
贈りものとして差し出したい。
他者の一方的な「予言」は呪いの言葉だ。
可能性を奪う。
目の前にいる相談者は
わたしの世界の住人で、
それはわたしへ差し出している
言葉でもあるのだ。
文章を書き、人に読まれるということは、なかなか不思議な気持ちになります。
自己満足の日記をちょっと公開するような怖さがあり、でもこうやってコメントをいただくと、私の身体から外に出た想いが、何かまた変化して戻ってきたような嬉しさも感じたりします。
今のところ、、
ただ書く、、ということに基づいて、書いていましたが、どこかでキリをつけ終わらせないといけないなぁ、提出があるし、、と終わりかたを考えはじめた時、文章を作ることを意識し始めたように思いました。
そうすると、読み返してみたり、意図は何だったのだろう? とか、、余計な欲や色が出てきて、案外苦しくなったりもしました。
なんか、、楽しいような苦しいような、、変な気持ちになっています。
”楽しいような苦しいような”
というのは表現者が持つ感覚だなあ
とおもいます。
欲や色を直視することで、
わたしたちは開いていくんだろうね。
「私の身体から外に出た想いが、
何かまた変化して戻ってきたような嬉しさ」
は循環の感覚だし、
「終わりかたを考えはじめた時、
文章を作ることを意識し始めた」
これも循環の感覚だなあとおもった。
世界と自分の間にある通路を
開いて循環させるって、
はじまりと終わりを意識することだし、
生と死を意識することだ。
表現すれば、評価が返ってくる。
返ってこないこともあるけど、
それも含めて返ってきてる。
コミュニケーション修行と聞くと
そんなのやりたくないっておもうけど、
その「こわい」の先に循環がある。
緊張すること、こわいこと、
失敗すること、失うこと、
めんどくさいことを
避けていると人生が澱む。
沼になる。
だからやったことのないこと、
こわいこともやっていきたい。
いのちの声を聞きながら。
実行するプロセスを重ねた先に
人生は展開する。
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